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「廃藩置県」発令

2021年11月05日 20:57 by norippe

 倒幕により江戸幕府から明治政府の時代になった。
 新しい政府になったとは言え、300年近く続いた幕府の体制が、そう簡単に変えることは困難であった。政府が政治の実権を握る必要があったのだが、明治政府の各藩に対する権力はまだまだ脆弱で、実質、政治の実権は各藩が握っているのが実情であった。
 藩は言ってみれば、日本国内に「藩」という名前の独立国が多数存在しているようなもの。そしてその藩はその藩の税収や軍隊を握っているのであるから、明治政府としての統率は厳しいものがあった。この独立国を廃止して、日本を明治新政府のもと、是が非でも統一する必要があったのである。

 そこで考えられたのが藩を廃止して、県を設置する「廃藩置県」であった。
 全国を政府が直接支配し、税収と統治の安定、そして近代化の礎を築くことを目的とした改革であった。藩を廃止して県に置き換えることは、明治政府が実質的に政権を握るための大きな一歩であったが、これは危険を伴った賭けでもあった。これをやらなければ政府が壊滅するという危機に迫られるなか、新政府の主導者である大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允らは苦悶の決断を下したのである。
 廃藩置県を実施するに先駆け、まず行ったのが「版籍奉還」であった。各藩が治めている領土や領民の戸籍を、天皇に返還させる政策がこの版籍奉還である。そして藩主は、地方行政官の役職である「知藩事」に任命され、政府が各藩を法的に統制するという狙いであった。

 1869年7月、明治政府は版籍奉還を開始した。
 政府は各藩の反発が起きないよう、慎重に話を進めていき、まず政府関係者の多い薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の版籍奉還を先行して行った。これらの藩が領土や領民を天皇に返還すると、それ以外の小藩もこれに従った。明治維新に伴った戦いで領民を統治する力が無くなっていた藩もあり、これらの藩は喜んで返還の勧めに応じたのである。
 しかしこの版籍奉還は、中央集権化の改革の一歩にはなったものの、実質各藩を治めているのは知藩事と名前が変わった元藩主。あまり大きな変化はなかったのである。
 明治政府は、中央の力をより強固なものにしようとここで廃藩置県に踏み切るのである。

 廃藩置県は最初から計画されていたものではなく、当初は版籍奉還によって知藩事の改革をめざしていた。反発が予想されていた廃藩置県、重要な関係各所への根回しを徹底するも、各藩には直前まで隠していたのである。特に薩摩藩の島津久光は廃藩には反対だったため、西郷隆盛と大久保利通には直前まで計画を知らせず、また最悪の事態を考え軍備もしながら実行の日を迎えたのである。

 1871年8月29日、政府は東京にいる知藩事(元藩主)を皇居に集め、重大な発表が行なわれた。全国の藩を廃止して、中央が管理する県と府に置き換える廃藩置県が発令された。この唐突な策は、藩主、公家、士族、そして各藩の民をも驚愕させた。
 「廃藩置県」を行えば、国内で反乱が頻発する危険性は大きかったが、しかし、実際にはそれほど大きな混乱は起こらなかった。日本の各藩は参勤交代や戊辰戦争などで多大な借金を抱え、利息を払うことすら出来ない厳しい状況の中にあった。日本全国の藩が借金に苦しめられ、藩の経営を投げ出す寸前の状況だったのだ。
 当然、日本が統一国家にならなければ、諸外国に植民地にされてしまうという危機感もあり、これ以上藩の経営が出来ないという事情も大いにあったと考えられる。そのため借金苦から解放される廃藩置県は、貧乏藩主にとっては「渡りに船」。ほとんどの藩主が財政難と統一国家の必要性という事情により、廃藩置県を受け入れたのである。

 しかし、薩摩藩主の島津久光のように、廃藩置県に断固反対した藩主もいた。
 久光は、徳川幕府を崩壊させ、独自の「島津幕府」を作ろうとしていた。そのため、薩摩藩の支配権を失う廃藩置県には断固として反対であったのだ。廃藩置県を断行した自らの元側近の大久保利通を、久光は生涯許さなかったと言われている。特に薩摩藩は藩の財政が潤っていたため、藩を捨てることは断固として許されなかったのだ。
 廃藩置県が実施されたその日、島津久光は桜島を目の前にした海岸の別邸から、大量の打ち上げ花火が打ち上げたと言う。久光の廃藩置県への抗議だったと言われている。

 この頃の明治政府は、実際の政治や政策は明治政府が行っていても、絶対的な命令の部分では天皇の力に頼らざるを得ない状態であった。政府が目指すのは「政府による中央集権」だったので、藩の制度を廃止することは、新しい国づくりに欠かせないものであったのだ。知藩事たちは全員失職させられたが、その代わりに貴族階級を作り、元藩主の家系は新しい身分層である「華族」になって行った。そして知藩事に代わる存在として、中央政府から「知事」が派遣されたのである。




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