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ザ・戊辰研マガジン

2021年11月号 vol.49

會津鶴ヶ城の北出丸大通りと三の丸の遺構

2021年11月25日 17:49 by tetsuo-kanome
2021年11月25日 17:49 by tetsuo-kanome

 私は、新型コロナウィルス感染が落ち着いている状況から、一年ぶりに会津若松市を訪問し、亡き母親のお墓参り後、短時間の滞在中、會津鶴ヶ城周辺の遺構を巡って参りましたので紹介したいと思います。

 まずは、會津鶴ヶ城の玄関口であります「北出丸大通り」には、「会津戊辰戦争終結の地」があります。1868年当時この場所で、戊辰戦争の『降伏式』が執り行われました。まさに「泣血氈(きゅうけつせん)」の場所です。私は、ここにたたずむと、なにか感じるものがありました。

【会津戊辰戦争終結の地】

【西郷頼母邸跡】

【西郷頼母】

【大山捨松生誕の地】

 大山捨松の生誕の地であり、兄の山川浩と山川健次郎の生誕の地でもあります。

【山川浩】

【山川健次郎】

【大山捨松】

【北出丸大通りと三の丸口の遺構の地図】

 次に會津鶴ヶ城の三の丸の遺構を紹介します。

【新島八重の像】

【新島八重】

【秋月悌次郎詩碑】

【秋月悌次郎】

 会津藩公用方・秋月悌次郎の詩碑が建っています。悌次郎は日新館の頃から非凡の才を見せており、江戸の昌平黌で書生寮の舎長を務めたこともあるほどの秀才でした。一時期周囲の嫉妬から蝦夷に左遷されたこともありましたが、戊辰戦争の際には軍事奉行に任命。後方支援を主に担当していました。 三の丸に刻まれた碑には「行くに輿なく帰るに家なし 国破れて孤城雀鴉乱る」という言葉で始まっており、悌次郎の憂い悩む気持ちを感じ取ることができます。この詩は鶴ヶ城開城後、密かに城を抜け出して長州藩士に会津藩の減刑を訴えに行った帰りに詠んだ詩と言われています。 戊辰戦争後、悌次郎は東京大学予備門や熊本第五高等中学校などで教鞭を執り、その講義は非常に人気がありました。その博学と人物は小泉八雲に「神のような人」と呼ばれるほどでした。

【佐川官兵衛顕彰碑】

 佐川官兵衛は、会津藩京都守護職時代には学校奉行・別選組隊長・諸生組隊長を兼ね、「鬼佐川」「鬼官兵衛と呼ばれていました。鳥羽伏見の戦いで奮戦、戊辰戦争の北越戦では会津軍指揮として、長岡藩河井継之助らと共に各地に転戦。戦後明治7年に警視庁の巡査に応募、明治10年の西南戦争には警視隊隊長として参戦し黒川村で戦死しました。この顕彰碑は平成13年に建立。西南戦争で佐川官兵衛が戦死した地である、熊本県南阿蘇村よりゆかりの大石を譲り受けて建立されたものです。傍らに阿蘇の松が植えられています。 顕彰碑には、辞世「君がため都の空を打出て 阿蘇山麓に身は露となる」と記載されております。

【司馬遼太郎文学碑】

 「司馬遼太郎文学碑」には、“会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作”と、司馬遼太郎が会津藩の教育や精神文化を高く評価し語りました。「司馬遼太郎文学碑」には随筆「歴史を紀行する」と、最後の藩主、松平容保を描いた小説「王城の護衛者」のそれぞれから抜粋した文章が碑に刻まれております。

 私はこれまで何度も會津鶴ヶ城を訪問しておりましたが、北出丸大通りと三の丸にこれほど多くの会津藩の遺構があることに気付いておりませんでした。改めて、これらの遺構を写真に収め、こうして皆様にご披露させていただきました。北出丸大通りと三の丸は、会津藩の遺構の宝庫と言っても過言ではありません。皆様も一つ一つの遺構をじっくりとご覧ください。

【記者 鹿目 哲生】

 

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