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ザ・戊辰研マガジン

2021年11月号 vol.49

刀を鍬に持ち替えた侍たち

2021年11月05日 20:54 by norippe
2021年11月05日 20:54 by norippe


 今から150年前、日本は国を二つに分けた戦いの中にあった。二年に渡った戊辰戦争、薩長を主力とする勢力が自らを官軍と称し、敵対するものは賊軍とされた。
 戦いに敗れて明治という時代を敗者として生きなければならない人達がいた。静岡県牧之原台地、原野を切り開き緑の茶畑に変えたのは、徳川幕府を支えてきた侍たち。
 深い傷跡を残しながら始まった新しい時代を、人々はどう生きたのか。




 大井川を渡る世界一長い木造の橋、蓬莱橋。
 徳川の時代、江戸防衛の為、橋の建設が許されなかった川に明治12年初めてかけられた。人や物が大量に行き交うようになったためである。そのきっかけを作った人物が橋のたもとにいる。江戸城無血開城を賊軍とされた徳川家の存続に力を尽くした勝海舟。



 明治元年、勝は徳川家と縁の深い駿河に、江戸を追われた多くの旧幕臣と共に下ったのだ。その中にいたのが将軍徳川慶喜の護衛役だった200名余りの精鋭隊。
 力を振るう場所を求めていた彼らに、勝は大井川の西、牧之原台地の開墾を進めた。作ろうとしたのはお茶。当時、生糸に次ぐ重要な輸出品とされていた。



旧幕臣たちが開墾した場所を示す絵図が残されている。

侍としての誇りに満ちて生きた徳川家臣団、しかし、時代はそれを許さなかった。



 ずっと腰にさしてきた刀。最後の姿を記念に撮った写真である。

 狐と狸しか住んでないような土地で、松の根っこを掘り起こすことから始めた厳しい開墾。牧之原の原野には住む家もなく、寺に寝泊まりして開墾を進めた。やがて寺は、この地で人生を終えて行く旧幕臣たちの菩提寺となった。精鋭隊から代を重ねながら、牧之原はお茶の一大産地に変貌していったのである。



 しかし、昭和に入るとそのお茶畑の一部、勝又地区は軍の敷地として摂取されたのである。偵察機の搭乗員を養成する大井海軍航空隊の滑走路となったのだ。

 戦争が終わり再び開墾が始まる。滑走路の路面を剥がす作業からだった。しかも当時は重機とかがない時代だったので、ツルハシ一本で固いベトンを打ち砕く作業が延々と続いて、やがて満州から引き揚げてきた人たちや復員生が生きる場所を求めてやってきた。新たな開拓者も加わり茶畑は広がっていったのである。
 牧之原のお茶は欧米にも大量に輸出され新たな国づくりを支えた。



 明治11年、旧幕臣たちが待ち焦がれた日が来た。殉国で静岡に立ち寄った明治天皇のもとに、牧之原の指導者が招かれたのである。
 天皇は彼らを、「報国殖産の鑑」と称えた。賊軍とされてきた人々は感涙にむせんだと伝えられている。




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