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日本三大火祭り「松明あかし」

2021年11月07日 10:54 by norippe

北緯 37°17'19" 東経140°22'57"
 地球上のこの地点で火柱が真っ赤に燃え上がった。まるでゴジラが口から火炎を吐き、暴れまわっているかの如く、須賀川の晩秋の夜は火の海と化した。
 福島県須賀川市で毎年11月に行われる日本三大火祭りのひとつ「松明あかし(たいまつあかし)」である。

 福島県須賀川市と言えば、ゴジラやウルトラマンの映画で名高い「円谷英二監督」、1964年東京マラソンで国立競技場へ初の日章旗を掲げた「円谷幸吉選手」の出身地としてよく知られているところである。このマガジンでも、鹿目さんが記事にしたのをご覧になった方も多いのではないだろうか。(記事はこちら
  須賀川には他に、大河ドラマ「青天を衝け」の「五代友厚」役の「ディーンフジオカさん」がいる。そして何といってもこの記事を書いている本人が須賀川市出身。須賀川という町は何と層が厚い町なのだろう。(笑)
 そんな須賀川市の一大イベント「松明あかし」は四百三十余年も続く、全国に誇る伝統行事なのである。


燃え盛る松明

 では、この「松明あかし」とは何なのか、その由来は一体何なのかをここで紹介しよう。

 今から四百三十余年前、豊臣秀吉が全国統一に向け九州を平定し、小田原北条氏へ臣従を求めていた頃、東北地方では、伊達政宗が南奥羽へその勢力を拡大しようとしていた。
 その頃のこの須賀川の地を治めていたのは須賀川城主の二階堂盛義。


須賀川城址

 永禄九年(1566)、対立していた会津芦名(あしな)家と和睦し、六歳の子 盛隆(もりたか)を二階堂盛義は人質として会津に送ったのである。 
 天正二年(1574)、会津黒川城主・芦名盛興が死去。それに伴い盛隆は請われて芦名盛隆として黒川城主となったのである。芦名家と二階堂家は一層強固な関係となり、それから二階堂家の威勢が高まり、岩瀬郡、田村、安積の領地を拡大し、約五万石にまでに及ぶようになったのである。

 しかし、天正十二年(1584)、盛隆は二十四歳で家臣に殺害されてしまい、家督を継いだ盛隆の嫡男 亀王丸も三歳で病死するという悲劇に見まわれたのである。その跡継ぎとして、伊達家から伊達政宗の弟である小次郎をという強い要望が出された。また佐竹家からは佐竹義重の二男である義広をとの強い要望があり、結果、佐竹義広が十三歳で婿入りすることとなったのである。
 後年、伊達政宗が芦名家を滅ぼした理由の一つに、この跡継ぎをめぐる問題が関係していると言われている。


伊達政宗

 天正十七年(1589)六月、伊達政宗が磐梯山麓で芦名家との大きな戦いが勃発。「摺上原戦い」である。伊達政宗はこの戦いに勝利し、芦名家を滅ぼした。
そして今度は二階堂家の須賀川を支配しようと、九月に二階堂家の重臣に内通服属の密書を遣わすなど策略をめぐらしたのである。

 このときの須賀川城主は、盛義亡き後、須賀川城主として八年にわたり、この地を治めていた後室の女城主である大乗院(だいじょういん)であった。大乗院は伊達政宗の叔母であった。政宗は、二階堂家の家臣を通して大乗院に和睦するよう求めてきたのだが、政宗の横暴な領地獲得の行動に立腹していた大乗院は和睦に応じる事は出来なかったのである。

 十月二十一日、大乗院は、城内に家臣や町民を集め、政宗と戦うことを伝えた。これに対して、二階堂家の家臣である矢部伊予守は、政宗へ降伏するよう進言をするのであるが、大乗院は、政宗が二階堂家の宿敵である田村家に味方し共に攻めたことや、息子の盛隆が継いだ芦名家を滅ぼしたこと、そして、自らが降伏した場合、佐竹家にも攻撃が及ぶ恐れがあることを語り、これまでの恩に報いることが出来ないと、戦うことを決めたのである。

 何人かの家臣は政宗を恐れ二階堂家を離れたが、大乗院に従うことを決意した家臣達は、千用寺と妙林寺の法印立ち会いのもと、一致団結して政宗と戦うとの誓文を書き、それを燃やし灰にして酒に入れて呑み合い、誓いを交したのである。


女城主 大乗院

 この間、政宗は次々と重臣に密書を遣わし、内通服属を強く求めて来たのだが、二階堂家には、大乗院の兄弟である岩城家から竹貫中務少輔と植田但馬守が、義理の兄弟である佐竹家から河井甲斐守が加勢するなど、合戦に向け緊迫した時間が流れた。


町割り図

 天正十七年(1589)十月二十六日未明、伊達政宗は大軍を率いて、「山寺山王山」のあたり(現在の米山寺公園・日枝神社付近)に本陣を構えた。
現在このあたりは陣屋町と言われる場所で、伊達政宗が陣を置いたことからこの地名が付いたようである。

 そして、決戦場となったのは「八幡崎・大黒石口」(現在の八幡山、須賀川病院付近)と「雨呼口」(現在の神田産業付近)で、辰の刻(午前八時頃)に政宗による攻撃が開始された。


火玉

 八幡崎・大黒石口では、伊達勢の新国上総介や白石若狭守などが攻め込んだのに対し、二階堂勢の須田美濃守や竹貫中務少輔などがこれを迎えうちに出た。中でも中務少輔の家臣・水野勘解由など強弓の者達が大活躍をして、伊達勢に大きな打撃を与えたのである。
 一方、雨呼口では、二階堂勢の攻撃により退却した伊達勢の大内備前守や片平大和守などに替わり、伊達成実が押し寄せて来たのだ。
 このとき、雨呼館の守将で、政宗に内通していた守屋筑後守は、側近の織部と金平の兄弟に須賀川の町に火を放つよう命じたのである。折から強く吹きすさぶ西風により、須賀川城は炎に包まれ、鎌倉時代からこの地を支配していた二階堂家・須賀川城は遂に落城したのである。
 八幡崎城(現在の八幡山)に踏みとどまり戦っていた二階堂勢も、その甲斐なく殆どの兵が戦死してしまった。

 落城の時、本丸にいた大乗院は自害しようとしたが、家臣たちに止められた後、城外に逃れ、仁井田から杉目城(現在の福島市)、いわき市の岩城家、常陸の佐竹家に移り住んだのである。

 その後、大乗院は、慶長七年(1602)、佐竹家の国替えに従い、秋田へ向かう途中病気になってしまい、須賀川に戻り長禄寺でその生涯を閉じたのである。


長禄寺

 江戸時代、須賀川では旧暦の十月十日に、「刈上げ」と呼ばれる秋の収穫祭が行われていたが、あわせてこの戦いで亡くなった人々を弔うため、「炬火(きょか)」を投げ合う行事が行われていた。
 松明あかしという名の由来は定かではないが、この火祭りは、その後、幾多の変遷を経て、今では十一月の第二土曜日に、二階堂家の戦死者のみならず、伊達家の戦死者を含めての鎮魂の想いと、この行事を守り伝えてきた先人への感謝の気持ちを込め、五老山で行なわれている。
 また、八幡町町内会では平成11年から、八幡崎城の戦いで亡くなった兵士たちの霊を慰めるため、「八幡山衍義」として慰霊祭を執り行っている。




大松明を運ぶ男性陣と女松明を運ぶ女性陣


会場下で響く大太鼓

 なお、令和3年の「松明あかし」は、新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から、令和2年同様に、「伝統行事の継承」を目的とした最小限の行事を無観客、関係者のみで実施予定。

参考文献:須賀川市HP「松明あかし」

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