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2021年11月号 vol.49

青天を衝け 23回  いろいろ感想!

2021年11月01日 15:23 by katsukaisyu
2021年11月01日 15:23 by katsukaisyu

青天を衝け23回 

 大政奉還   パリで英一は幕府使節団の金策に頭を悩ませていました。先立つものはお金です。そこへ、小栗勘定奉行からの送金がきました。外国奉行から為替を手渡され、「任せたぞ」に英一は「はい」と答えていました。日本へ帰る友人に、「こっちのことは任せろ」とも告げる英一です。英一もたくましくなったものです。何でも、長州藩士で禁門の変で戦死した久坂玄瑞と、渋沢栄一はどちらも天保11年(1840)生まれの同年齢なのだそうです。

 慶応3年(1867)、英一は27歳!久坂は1864年に一軍を率いて京へ攻め込み、英一はパリで幕府使節団の財布を握る・・変動期ゆえかもしれませんが、この時期、若者はよくやっています。ちなみに徳川慶喜は、天保8年(1837)生まれで、この頃は30歳!  15代将軍徳川慶喜の家臣、原市之進が幕臣に暗殺されました。平岡は水戸藩士による暗殺でしたし、慶喜もつらいです。慶喜を殺せないので、現状に批判のある人は、側近を狙うのでしょう。ただ、暗殺したところで、現状がよくなるわけではないです。

 慶喜は原も殺され、孤独です。相談できる家臣が居ればねぇと、思います。武力衝突を回避するためにと、大政奉還を決意しました。慶応3年10月12日、二条城で慶喜は政権を朝廷に返上すると、家臣団に告げました。この場面、慶喜の前に並ぶのは幕臣たちです。幕臣たちが、直接、慶喜から話を聞きたいと望んだとのことです。

 よく、教科書に載っている大政奉還の絵はこの場面です。「有名な」、小松帯刀や後藤象二郎ら陪臣たちに大政奉還を告げるのはその翌日で、慶喜は彼らの前に登場していませんでした。二条城内の部屋も違いました。

 今年の大河の冒頭に北大路欣也さん演じる初代将軍、徳川家康が登場して、驚いたものですが、この大政奉還の場面で活きてきました。返上を告げる慶喜と、無念の表情ながら言葉を飲み込む家康です。徳川幕府は終焉しますが、徳川家そのものは残した慶喜です。

 慶喜の父は家康の子孫、徳川斉昭ですが、母は吉子女王、皇族です。霊元天皇の曽孫に当たる方でした。ということは、慶喜は天皇の曽々孫にあたります。皇室に繋がることは、慶喜の誇りでもあったようで、本音では、表は葵で、裏は菊だったとか。家茂だったら、大政奉還にはならず、慶喜ならではだったのかもしれません。幕藩体制を終わらせ、天皇中心の新しい世の中にしたいと、春嶽に語る慶喜ですが、そう簡単に事が進まないのが幕末です。

 パリでは洋風に合わせようと、髷を切って短髪にし、洋装になった英一たちです。当然、こちらの方が動きやすいので、合理的な方々は身軽になって便利だと思ったでしょう。ただ、そう簡単には切り替えられない人もいるわけで、現代人にはおかしげな話ですが。明治以後、いろいろな地域で髷を切るか(変革に合わすか)、受け入れられないか、葛藤がありました。

 パリで近代的な社会制度について学ぶ英一です。身分に関わりなく、能力のある者が活躍する社会に感激する英一ですが、フランスも日本とはまた、違った身分制社会ですので、それなりに難しさもありました。ただ、1789年にフランス革命をやった国はそれなりに風通しは良いだろうと思います。

 パリ紀行の続きです。2017年のパリの風景です。

 

  写真はオペラ座ですが、この近くに、徳川昭武ら、幕臣たちが宿泊したグランドホテルがあったのだそうです。当時はまだ、オペラ座は建てられていません。

  シャンゼリゼ通と凱旋門です。

 凱旋門は、ナポレオンの凱旋のために造られましたが、生前はまだ未完成で、英一たちが訪れた頃には建っていました。ここは今も上に上がることができ、ほどよい高さからパリの町を見下ろすことができます。

 英一たちが見ているのは、合成ですね。以前、登ったことがありますが、写真が見当たらず、です。フィルム時代のカメラだったのかもしれません。

 遠くに見える金色の屋根がアンバリッド(廃兵院)です。ここも内部の写真が見当たらなかったのですが、内部にはピンク色の立派なナポレオンの棺があります。英一たちもお参りにきていました。

 初めて訪れた際には、変わった埋葬の仕方をするものだと思った次第です。ヨーロッパでは、中世の頃、教会の内部に王家や貴族、宗教関係者の墓があり、参拝者の目線と同じ場所に石棺が置かれていることがあります。

 フランスではナポレオンが大人気ですが、何でも、ナポレオン時代は外国に遠征して、そこから分捕ってくるため、フランス国内では免税だったからと聞いたことがあります。ナポレオン軍が強かったのは、ナポレオンの戦略もあるでしょうが、他の国は傭兵部隊が主戦力で、兵士が亡くなったら終わりだったのに比べ(日本も江戸期まではそうでした)、フランス革命後のナポレオン軍には一般の国民も徴兵されて戦ったからだとか。

 日本も、英一たちがパリへ行った数年後には徴兵になり、一般の国民が戦死するようになりました。

     写真はルーブル宮で、現在、内部はルーブル美術館です。「モナリザ」や「ナポレオンの戴冠」はじめ、名画の数々が展示されています。このルーブルと向かい合って、西側にナポレオンの公邸だったチュルリー宮がありました。

 1867年、徳川昭武ら幕府使節団一行がナポレオンの甥、ナポレオン三世に謁見したのはこのチュルリー宮とのことです。残念ながら、4年後の1871年に起きたパリ・コミューン(民衆の革命政権、フランスの内乱でパリ市民が3万人、虐殺されました)の際に、炎上して、再建できなかったため、現在はチュルリー公園になっています。

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