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十津川郷士⑧(御親兵多難-天誅組の変)、その2

2021年11月01日 15:21 by tama1

 天誅組は徹底抗戦を決め、八月二十三日、本陣を天辻峠に移して、十津川郷から郷兵 千二百人余を徴集しました。 禁裏御守衛の第一陣百余人が上洛して十二日後のことで、主税や丸田藤左衛門ら首脳 は、みな京におり、郷には野崎主計、深瀬繁理の二人が留守居役をしていました。

 そこへ天誅組の吉村寅太郎が現れ動員をかけたのです。「これは勅命である!」と・・ 十五歳から五十歳までの男子は、明二十四日中に残らず「天辻の本陣」に集まれ! 遅れたものは厳罰に処する旨の檄を全郷に流すようにと、留守居の野崎主計に求めた。 郷士の禁裏出仕が実現して間もないことでしたから、郷内は勤王一色に燃えていたこと もあり、野崎主計も「勅命」を頭から信じ、全郷中に檄を飛ばした。 かくして、郷兵千二百人はたちどころに集まり、天誅組の本陣に大挙はせ参じたという。

 さて、上平主税や在京の郷士が、留守中の異変を知ったのは「十津川記事」などによる と、八月二十六日の夕方だったようです。

 この日早朝、天誅組は十津川兵の大挙参戦に勢いづき、高取城を攻めるも、拙劣な作戦 ・用兵がたたって大敗します。十津川の兵は散りじりになって郷里へ逃げ帰ったが、池穴 村の庄司尾中甚蔵だけは、ひとり京へ走り十津川屯所に主税らに急を報じています。 主税たち在京郷士が仰天したのは言うまでもありません。 朝廷ではこの日、天誅組を国家の乱賊と断じ、紀伊、彦根、津、郡山の四藩に追討の命 を下したばかりでした。

 その賊徒に国元の郷中が加担し、郷兵を大挙参戦させたのだ。これが朝廷に知れたら、 在京の郷士がどうなるか・・・主税ら幹部は鳥肌の立つ思いで善後策を協議しました。 その結果、どうせ知れることだから、下手に隠し立てするよりも、むしろこちらから朝廷 に事実を申し出るほうが、心証も違うだろうと、同夜のうちに、丸田藤左衛門が上書を したため、伝奏野宮定功に届け出しました。 この時の上書は西田正俊著「十津川郷」に収録されています。丸田藤左衛門、中善藤太 、千葉定之介、吉田源五郎、千葉左中の五人連署で、宛先は野宮御殿役人中となって いるそうです。(新型コロナウイルス感染防止緊急事態宣言解除の節は是非とも図書 借り出して確認してみたいと思っています)

 「十津川草莽記」には読み下し文にて紹介してくれていますので、添記しておきます。 コノ度、大和徒党ノ一揆ノモノ、天ノ川辻ト申ス処ニ陣取リ、上京ノ人数三百人程ヲ遮リ 留メ、ナオマタ郷中人数ヲ催促ニ及ビ候由、右徒党中ニ引キ入レラレ候コトハ、甚ダ以テ 歎ワシキ次第ニ御座候間、何卒朝命ヲ以テ、右遮リ留メ候人数、並ビニ郷中人数、総ジ テ京師ヘ引キ登リ置キ、御警衛仕リ度ク存ジ奉リ候、此段願上候、以上。 この上書では、禁裏御守衛の為、上京しようとした三百人が、天誅組に遮られた、と言 っているが、実際にはそんな事実はない。しかし、郷士が天誅組に加担して戦ったこと は認めている。無理やり天誅組に加担させられたと書くことによって、朝廷の同情をひき 、心証を和らげようとした郷士らの苦肉の策であろうと書かれています。

 この狙いは成功したようで、朝廷でも同情したものとみえ、翌二十七日、次のような沙汰 が下っています。 頃日和州ニ於イテ、中山侍従ト名乗リ、勅命、勅使ナドト相唱ウ暴虐ノ徒、コレアル 趣、相聞コエ候、カツ先頃以来、朝廷ヨリ給禄候十津川郷士中、多人数、途中ニ於テ遮 ラレ、艱苦必全ノ由、勅使ト為シ、中山侍従ナドト申候人ヲ差下サレ候儀ハ一切コレ無 ク候間、其心得ヲ以テ右郷士何様共ニ相遁レ早々上京有ルベク御沙汰候事。

 十津川郷士は朝廷が禄を授けていると言い、天誅組に遮られて苦労しているようだが、 一日も早く逃れて上洛せよ、と言っている。これは在京郷士の言い分を、朝廷がそのま ま受け入れていることを意味しています。

 「天誅組に足止めされている郷士を早く解放し、上洛させよ」との朝廷の沙汰に一安心 した主税ら首脳は、翌八月二十八日、早速使者を送って、その旨を郷里に伝達させる ことにした。 だが、郷里を取り巻く状況は厳しくなっていた。道中では天誅組、追討勢の双方が厳重 な検問の網を張っていて、、案内知った郷士でも、容易にそれをかいくぐるのは難しいと 判断した主税は、使者十人を二手に分け、一手は高野山越えで、いま一手は北山越え で郷里へ潜入させる策をとり、どちらかでも、何とか郷里に到達して、朝命を伝えて欲 しいと願っていたようです。結果はしかし、両方とも成功しなかった・・・ 御親兵多難-天誅組の変②に続きます。

 

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