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ザ・戊辰研マガジン

2020年05月号 vol.31

会津柳津で電車を4時間待つ

2020年05月06日 19:55 by date
2020年05月06日 19:55 by date

 私の毎朝の通勤の事である。
 通勤のために乗っている電車は乗換駅の北千住駅に6時40分に到着する、到着後は脱兎のごとく北千住駅のエレベーターを駆けのぼり、人込みを押しのけて常磐線のホームに駆け付ける、6時42分の常磐線の電車に駆け込むのだが、乗り換え時間は2分もない。この電車に乗り遅れると北千住駅の常磐線ホームで次の電車まで8分も待たなくてはいけない。
 8分である、私は通勤時には新聞は読まないし週刊誌も読まない、かといって今流行りの音楽プレーヤーで音楽を聴いたり、スマホのゲームに熱中したりしない。常磐線のホームでひたすらボーとして電車を待つのである。なんと苦痛なことか。
 通勤時の8分間のために必死になって北千住の駅構内を走るのである。

 私は昨年秋に、会津柳津町で4時間も電車を待った。
柳津町のホテルに宿泊して朝食後に駅に向かえば柳津駅発9時38分の会津若松行きの電車に乗れたのである、だが宿泊したホテルには会津関連の書籍やパンフレットが沢山あり、それらを読破して次の電車に乗ろうと考えていた、ところが当日は宿泊したホテルの都合で10時前には閉館になるという。つまり9時半過ぎにはホテルを出されてしまったのである。
 次の電車は13時23分の会津若松行きである。つまり約4時間も待たなくてはいけないのである、私は8分間の時間を待つのがイヤで北千住駅の構内を走る男である。どうやって4時間を過ごそうか。
 4時間を過ごすためにいろいろ方策を練った、柳津町には「駅の道」があるという。しかし場所もわからず往復の距離もわからない、私は基本的に歩くのはイヤである。近所の人にスーパー銭湯らしき施設の事を聞いたが要領が得ない、もしそういう入浴施設があったとしても歩くのはイヤだ。
 とりあえず柳津の駅方向に向かって歩いた、左手に「粟まんじゅう」で有名な小池菓子店があったが大変な行列と車の駐車である、ここの饅頭屋さんに入ってお茶を呑むことはできないようである。小池菓子店から少し歩くと有名な「福満虚空藏菩薩円蔵寺」が見えてきた、石畳の階段を登ると福満虚空藏菩薩圓蔵寺の本堂がある。

 円蔵寺に向かう石畳の階段
 
 階段の段数は数えていないが大変な距離である、この階段を登らなくちゃ行けないので頑張って上った。私は基本的に好きなのは「エレベーター」「エスカレーター」「動く歩道」である。寺社仏閣には近代化を求められないので、先人の苦労を忍んで頑張らなくちゃいけないのである。

 円蔵寺の前景

 階段をやっと登りきったところが写真にあるように福満虚空藏菩薩円藏寺である。地元の人は「円蔵寺」とは言わずに「虚空尊」という。

 大きな岩の上に立つのが「円蔵寺」である

 慶長11年におこった慶長地震で柳津の町家や円蔵寺は崩壊した、しかしその7年後に円蔵寺再建の時には地震に対応できるように、頑丈な岩の家に円蔵寺を建てることになった。
建築のための木材は新潟方面から川運によって運ばれたが、川から岩の上に揚げることができない、その時にどこからか赤牛の大群がやってきて木材の運搬を手伝ったという。
 ところが赤牛たちは円蔵寺の再建を待たずして居なくなってしまったという。このことから会津・柳津では赤牛を幸運を運ぶ縁起物として郷土玩具にした。これが柳津名物の「赤べこ」の
由来だそうである。

 円蔵寺境内にある赤べこのモニュメント

 その時の私はなにしろ時間がたっぷりあるので境内のあちこちを歩き回ったのである。
 
そこで私が思いついた感想は、柳津に居ついた赤牛(たぶん茶色の牛の事)を無理やり連れてこられ重労働に従事させられたために、イヤになって完成前に脱走したのではないかと勘繰るのである。(あくまで個人の感想です)
 そんな円蔵寺では時間を潰すために、建物の中に入ったりじっくりと建物を見たりとしたが結局30分が限度であった。

 円蔵寺を下りた後は、円蔵寺と川の間に「観光協会」があった、私の認識では観光協会はおおよそJR駅の構内か駅前にあるはずなんだが、ここ柳津では円蔵寺の真下にあった。
そうでしょう何しろ一日に6本しか走らないJR只見線ですので、駅近くの観光協会ではあまりにも効率が悪すぎます。町一番の観光施設の近くに立地するのが手でしょう。
 その観光協会の中で時間を潰すことにしました、協会の建物の中は椅子テーブルが設置されており、玄関ドアには「ご自由にお入りください」なんてはり紙もありました。うれしいですね私のような浮浪児にはありがたい施設です。
 その観光協会の中で地元の新聞2社と全国紙の新聞1社分、計3社の新聞を読みました、なにしろ時間があるもんでそれぞれの新聞の上から下まで、右から左まで丁寧に読んでいきました。見慣れない新聞を読むっていうのは楽しいですね。福島県、とりわけ奥会津地方の情報が満載です、奥会津でどんな事故があったとか、各地でどんなスポーツ大会があってその成績はどうだったとか、各町の公民館ではどんな催し物があったとか、これで私は一端の福島県の情報通になりました。
 なおかつ観光協会に備え付けられている地元発行の書籍なども拝見しました。そうして過ごしましたが時間がたつにつれて観光客が訪れて、観光協会の席が全部埋まってしまいました。
聞き分けのいい私はここで退散です、結局2時間を観光協会の中で過ごしました。

 円蔵寺で30分すごし、観光協会で2時間を過ごした、残るはあと1時間30分である、この会津柳津町には私が望む施設はない。たとえば書店ならば立ち読みで30分は確保できる、例えばスーパーマーケットならば地元の商品を見たりして20分は過ごせるだろう、例えば酒屋さんがあれば地元の日本酒を眺め、店員さんがいれば会津の酒事情を聴くこともできる、これで20分は確保できるでしょう、その時にその店で地元の日本酒1本も購入すればお茶も出してくれて世間話もできるだろう、これで20分確保。
 しかし会津柳津町には駅までの途中にそういった書店もスーパーも酒店もなかった。
そういう無いものねだりの妄想に浸かっていたらJR東日本の柳津駅に着いてしまった。

JR東日本・只見線の「柳津駅」柳津駅の改札口、但しこの写真は前夜の18時ころの風景である。

 国道から一段上の道路沿いに建つのが「柳津駅」の駅舎である、正確に言えばJR只見線沿いに建つ木造平屋建ての白い駅舎が「会津柳津駅」だ、この駅舎は「東北の駅百選」に選ばれている駅で、駅周辺のソメイヨシノの桜と「C11 244]という蒸気機関車がコラボする瀟洒な駅舎である。
 私が訪れた10月は落ち葉の季節で、駅周辺には紅葉が舞っていた。なんとも枯れた寂しい風景である、列車出発の1時間半前は誰もいなかった。
柳津駅の待合室には簡易な書棚があった、単行本が多く並べてありその内容は、会津関連や時代物が多くその中に流行物の本も含まれていた。こういう駅舎の書籍というといかにも古く粗雑に扱われていたであろう本が多いのだろうが、ここ柳津駅の書籍はいづれもきれいであった。
 私はその書棚から会津関連の書籍を取り出し、しばし読書に夢中になった。

 そして午後1時過ぎに乗るであろう只見線の電車を待つべくホームに立つ。
 会津柳津駅は単線であることから、ホームは1番線のみで上下の電車は同じホームに止まる。

 待望の列車が到着したのは只見線のディーゼル電車である、この時のホームには数名の地元の人がいつの間にか集まっていた、中には手ぶらのおじいさんん姿もあった、おそらく只見線の時刻に精通していて自分の足として使っているのだろう。
 いよいよ13時23分柳津発の電車に乗り込むのだが、車両に入って驚いた、なんとほぼ満席なのである。一日わずか6回の只見線である、なるほど紅葉の季節で只見線は盛況である。
私は車内に入りやっと座れる場所を見つけて座った、まさか奥会津に来て吊革につかまり揺れに任せての電車旅になろうかとは思わなかった。座席に座れてよかった。
 会津若松駅までは約1時間の行程であるが、会津盆地に位置する奥会津であるが車窓から見られる風景は見渡す限りの田園風景であり、この地こそが会津20万石を支えていたのだろうと感激する。遠くに近くに見られるのはたわわに実った柿の木があり、甘柿が育たないという東北の柿事情が垣間見られる。柿の木や田畑の風景を見ていると唱歌の「里の秋」という歌を思い浮かべてこの地の風景こそが「里の秋」であるとしばし感傷にしたるが、この「里の秋」という唱歌は戦時中に出征した父親を思う切ない家族を唄った歌であることを知ったのは後日である。
 この里山にたわわに実った柿を見て思うのは、農家に柿の木の植樹を勧めた幕末の山田方谷の政策の成果が会津まで届いているのだろうと思われることである(個人の感想です)。

 

 

 

 

 

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