朱雀隊隊士渡辺東郊筆 攬勝亭の絵 について
朱雀隊士の渡辺東郊(わたなべとうこう)が攬勝亭(らんしょうて)西手の様子を描いた絵が会津若松市の個人宅から発見されました。渡辺東郊は、会津の絵師遠藤香村の弟子で、1848年生まれですが、没年は不明(大正〜昭和初め頃?)です。渡辺東郊の実家は、北会津の下荒井付近にあったとの説があり、そうであれば攬勝亭博物館比較的近くにありますから、元會津公別園であり、會津公御遊園、會津藩士の憩いの場であった攬勝亭には何度も訪れていたと考えられます。
戊辰戦争の時(1868年慶應4年から明治元年)、攬勝亭 は、會津軍団の朱雀隊隊士、青竜隊隊士、凡そ300人の部隊が駐留する若松城(鶴ケ城)西手郭外の軍事拠点になっていました。凡そ5000俵の米と味噌、醤油などの食料貯蔵されていました。武器類も貯蔵されていたと考えられます。渡辺東郊が攬勝亭朱雀隊駐屯軍団に属していたかどうかは、明らかではありませんが、攬勝亭の絵画は、戊辰戦争で焼失する以前の状況をかなり正確に描いたものとして大変貴重と言えます。
現在、存在する茶屋は、大正15年8月頃の再建と言います。 渡辺東郊の描いた茶室の位置が現在より南でもっとも奥に描かれています。鏑木門らしい門も現在より南です。渡辺東郊の攬勝亭の絵の上方には「元會津公別園 攬勝亭」の題が墨書されており、攬勝亭十景ノ其の一炙背秋月 歌 が続きます。
歌は、どうやら幕末期の論客で、奥羽越列藩同盟の結成に尽力し、仙台藩校明倫養賢堂学頭でもあった大槻磐渓の歌を書き込んでいることがわかりました。ここでも、攬勝亭と會津松平家藩祖保科正之公や三代松平正容公、松平容保公と縁の深い攬勝亭 であることを裏付けることができます。
最近、 会津若松市史掲載の攬勝亭写真とは別の写真が7枚発見されました。大正初年撮影の絵葉書3葉と写真4枚です。会津松平氏庭園(御薬園:楽寿亭:国指定名勝)と作りが似ている茶屋御殿の写った写真もあります。
茶屋御殿が戊辰戦争で焼失を免れたのか、その後の再建かは現在調査中です。この茶屋御殿は、おそらく會津公が立ち寄りお茶などを召し上がったのでしょう。少し調査をすれば攬勝亭がただの古い荒れた庭との評価は誤りであることが明らかであるといえましょう。
会津若松市文化財保護行政当局は、どのような事前調査をし、どのような認識で開発許可をだしたのでしょうか?
会津若松市当局が開発許可を出す前の調査不足、認識不足は明らかと言えましょう。
戊辰戦争研究会の皆様方には、引き続き會津公別園攬勝亭の専門官による精査と保存活用にご理解とご協力を重ねてお願い申し上げます
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4/24 目黒章三郎市議の案内で、攬勝亭を守る会(令和2年4月11日発足) の 星野名誉会長、高瀬会長、鈴木副会長、成田会津史談会会長、大川原会津史学会会長、滝沢会津民俗研究会会長、森田会津文化団体連絡協議会前会長(顧問)等が460名の署名要望書を持参して、室井照平会津若松市長、清川雅史会津若松市議会議長に面会しました。
要望内容は、
1、攬勝亭の保存
2、専門家(文化庁庭園調査専門官)の招聘と攬勝亭の精査 の2点です。
攬勝亭を守る会では、4/25から第二回目の要望書署名を開始いたしました。 Facebook 攬勝亭を守る会 検索 で 署名フォーム、署名送付先FAX番号等表示されます。ご協力、よろしくお願い申し上げます。
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発信:戊辰戦争研究会東北支部所属 會津 山川健次郎 (会津 長尾修)
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