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ザ・戊辰研マガジン

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自由民権運動発祥の地 福島県石川町

2020年05月06日 20:47 by norippe

 石川町は福島県中通りの南に位置し、東のいわき市、西の白河市に挟まれた人口1万6千人ほどの町だ。私の本籍はこの石川町の母畑という場所にある。母畑(ぼばた)には母畑という温泉街があり、名の売れた温泉ホテルがある。

 石川町には母畑温泉と猫啼温泉(ねこなき)の二つの温泉があり、母畑温泉は、900年ほど前の奥州征伐の時代に開湯した温泉で、母畑という名前の由来は兵馬をこの場所で洗った時、傷が治ったため母衣と旗を立て祀ったところから来ていると言われている。この母畑温泉の湯に含まれるラジウムの含有量は東北一らしい。
 それから猫啼温泉、石川町は平安中期の女流歌人和泉式部の誕生の地と伝えられており、その和泉式部にまつわる伝説が猫啼温泉に残っている。今を去る千年の昔、和泉式部(たまよ姫)は当地石川の在に生まれ、少女の頃、この里にこんこんと湧く清水に来ては顔を洗い、髪を梳ることを楽しみとし、美しい乙女となった。やがてその美しさは遠近に聞こえ、ついに都に上ることとなる。故郷にとり残された式部の愛猫は病んでおり(痔疾)、式部を慕って日毎にこの泉に来ては啼いていたが、泉に浴しているうちに病いは癒えて美しい猫となった。それを見ていた里人は泉が霊泉であることを知って入浴したところ諸病に効能があり、この地を猫啼と名付けて湯治場を設けた。

 町の中心を今出川が流れ、堤の桜並木は開花時の美しい景色から「桜谷」とも呼ばれて桜の開花時期には多くの人出で賑わいを見せている。

 前置きが長くなってしまったが、明治の初め、国会開設や憲法制定、地租軽減などを要求し、当時の政府に民主政治の実現を迫った自由民権運動の先進地の一つが、福島県南部にあるここ石川町なのである。
 板垣退助らが国会開設を求めた民撰議院設立建白書を提出し、日本初の政党、自由党の源流となる政治結社を土佐で結成して、わずか1年数カ月後、この石川町で自由民権運動を進めた政治結社「石陽社(せきようしゃ)」の前身団体が誕生したのである。
 明治8年、石川町を発祥に結成された政治結社「有志会議(のちに石陽社となる)」 のリーダー吉田光一が東北の自由民権運動を主導、厳しい弾圧と闘いながら「民主主義」という新たな時代の扉を開いたのだ。そしてこの吉田光一は明治27年に、人々の厚い信頼と支持を得て石川町初代町長に選ばれた。


初代石川町町長の吉田光一

 福島の自由民権運動は、民衆が警官隊と激しく衝突した福島事件などに発展していくが、大本をたどれば、この小さな山間の石川町に行き着く。石川町で運動の歴史を掘り起こしているのが、郷土史家らでつくる団体「石陽史学会」だ。
 石川町で運動の中心を担ったのは、衆院議長も務めた政治家の河野広中。


政治家の河野広中

 河野広中は嘉永2年7月7日、三春藩の家に生まれ早くから政治に関心を示し、戊辰戦争時には藩論を討幕派へ導くため奔走、新政権成立後は若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉の戸長、そして石川の区長を務めた。戸・区長在職中ミルの思想などに啓発され、民会の開設や政治結社石陽社の創設に尽力、おりから起こった自由民権運動に加わり、1880年(明治13)には国会開設上願書の捧呈委員に選ばれるなど、やがて運動の全国的な指導者となった。


福島県庁に建つ河野広中像

 一方、1881年4月には弱冠31歳で福島県会の議長につき、地方自治の確立のため奮闘した。そのため翌1882年専制的官治的行政を推し進める県令三島通庸と激しく衝突して捕縛され、国事犯として軽禁獄7年に処せられた。いわゆる福島事件である。


県令の三島通庸

 県令は今で言う県知事で、この県令の三島通庸(みちつね)は鹿児島生まれ。家は鹿児島藩の鼓の師範。尊王攘夷運動で活躍し鳥羽・伏見の戦いの後、東北を転戦した。明治4年東京府に出仕、酒田・鶴岡県令を経て明治9年から15年まで山形県令。明治15年1月から福島県令を兼任、同年7月より福島県令専任し翌年10月より栃木県令を兼ねた。明治17年内務省土木局長に転じ、翌年警視総監に就任。積極的に地域開発を進める「土木県令」として知られる一方、強権的な手法で自由民権運動と対立し、この福島事件や加波山事件などを誘発したのだ。

 河野広中は明治22年憲法発布の大赦により出獄し、翌年の第1回総選挙に当選して以後14回連続当選。この間、明治36年に衆議院議長、大正4年に第二次大隈重信内閣の農商務大臣を歴任した。議長時代、勅語奉答に託して行った桂太郎内閣弾劾は「勅語奉答文事件」として有名である。明治30年の創立以来深くかかわっていた自由党を離党した後たびたび所属政党を変えたため、政治節操を疑われたりしたが、民権運動期に培った「普選」の理念は一貫して失わず、その実現を目ざして活躍したのだ。
 河野が石川町の区長時代に使用し、石陽社の演説会場になった庄屋屋敷、通称「鈴木重謙屋敷」の周りには石陽社に参加した人々の家が並んでいた。屋敷は石川町による復元が進められており、残された門に加え、老朽化で解体された木造平屋の建物が再現される。
 屋敷の周囲には、石陽社に参加した人の名前などを刻んだ石碑が140以上立っている。資料によると、参加者の大半は20~30歳代で、10代後半の若者もいたらしい。なぜ彼らは運動に傾倒したのか。一帯には士族がおらず、幕末には庄屋が大きな力を持った。困窮した農民が庄屋の家を襲い、証文を焼き払うなどの打ち壊しが相次いだ。こうした民衆の怒りに触れるうちに、当時の知識層の庄屋や豪農の子弟が『民衆のための政治』という考え方をもつようになったのではないかと言われている。
 その庄屋の鈴木家主屋及び門(通称:鈴木重謙屋敷)は、江戸時代は石川組16ヶ村を束ねた大庄屋で、明治時代には自由民権運動で活躍した鈴木荘右衛門・重謙親子の居宅であるとともに、自由民権運動の先導者で、のちに衆議院議長を務めた河野広中が、初代区長として執務にあたった約150年前の役所跡(石川区会所)でもある。平成25年に門、平成29年に主屋の復原工事が行われ、往時の姿がよみがえり、施設は、石川地方の自由民権運動を学ぶことができる「郷土教育の場」としてのほか、施設内に休憩スペースを設置し、さらに、一部の部屋に貸館機能を持たせ、誰もが集い、交流活動が出来る、まちなかの「にぎわいの場」としても開放されている。


鈴木家主屋の門

 石川町には県立石川高校と私立の学法石川高校があり、なかでも学法石川高校はスポーツが盛んで、高校野球では甲子園への出場校の常連として名を残している学校であった。その学法石川高校の校門の前を通りぬけ急な山道を登り左に進むと石尊山(せきそんやま)と呼ばれる公園に出る。その石尊山公園内に石陽社の記念碑がある。
そして銘文が刻まれている。
【銘文】
“わが郷土石川のこの山この川は悠久の昔から永遠の未来につながる祖先の遺産である。明治8年この地に近代日本の夜明けを告げる「石陽社」が誕生した。 この山間に西の立志社と相呼応して自由民権の理想を高く掲げた先人の明断をたたえ、今改めて往時を回想してその事績を偲びここに銘を刻んでさらに郷土発展の覚悟を新たにする機縁としよう。”


石陽社記念碑

(記者:関根)

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