バックナンバー(もっと見る)

2020年07月号 vol.33

笹竹は古くから厄よけの力を持つ聖なる植物とされていました。江戸時代に願いご...

2020年06月号 vol.32

152年前の5月に奥羽列藩同盟が結成され、仙台藩をはじめ同盟軍がこぞって白...

2020年04月号 vol.30

弥生3月桜の季節になった、このマガジン30号が発刊される頃はすでに葉桜とな...

ザ・戊辰研マガジン

2020年05月号 vol.31

仏都会津・徳一大師

2020年05月12日 07:20 by tetsuo-kanome

【徳一大師像】

 会津盆地には盆地をとりまくように古い寺々が点在し、奈良・京都・鎌倉・平泉などとともに、わが国の五大仏都のひとつに数えられるほど仏教にまつわる話題が豊富で、仏都会津といわれております。

 仏都会津の名を生んだのは、最澄や空海の強大な論敵として日本仏教の一時期を担った高僧『徳一大師』であります。徳一大師は都の仏教に反対し、未開野蛮と言われたみちのく会津に慧日寺(古代会津仏教の総本山)を開きました。その頃、磐梯山は病悩山とも呼ばれて魔物が住み、作物も実らず悪い病気がはやる始末に負えない土地だった。徳一大師はその土地に慧日寺を開き、仏法をもって魔性の者や悪疫と戦いました。最初は粗末な草堂でしたが、全盛時には寺領18万石、子院3,800、寺僧300、僧兵数千を擁し会津に君臨しました。伊達政宗が会津攻めで慧日寺を焼き払ったため、今は見る影もありませんが、慧日寺の他に、勝常寺、柳津円蔵寺、西会津妙法寺など、今に徳一大師の足跡を伝えております。

 最澄は、唐の留学から帰り、天台宗を唱えて奈良仏教を攻撃したので、徳一大師は最澄に反撃を加えて五カ年間にわたって大論争を展開しました。理論闘争において最澄は徳一大師に勝てなかったようです。最澄は、徳一大師を折伏(しゃくふく)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一大師に遮られて成功しなかったそうです。徳一大師は、藤原氏の菩提寺である興福寺で法相宗を学んだ僧だが、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子、すなわち藤原不比等の曾孫であり、血筋が抜群である。徳一は、子供の頃、道鏡のために不遇を極めるが、道鏡の失脚の後はいうまでもなく順風の中に修行を積んでいきました。いうまでもなく南都六宗というか奈良仏教の立場であり、良弁(ろうべん)らとともに明恵(みょうえ)に繋がっている。徳一大師は、会津に慧日寺(えにちじ)を建てて、法相宗の布教につとめました。徳一大師は、貴族の出でありながら、子供の頃の苦労が幸いしたのか、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済に努めた大人物でありました。

 慧日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部をその境内とするほど広大な敷地を有し興隆をきわめたといいます。藤原一族の援助もこれあり、寺は年毎に栄え、信仰を求める人々はぞくぞくと慧日寺(えにちじ)に集うて集落を形成し、寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたといいます。磐梯山麓に光り輝いた法相教学の栄光がほうふつと目に浮かびます。徳一大師は、後に東大寺の僧も勤めることになりましたので、良弁の(ろうべん)の流れを受け継ぐ僧でありました。徳一大師は、良弁(ろうべん)開基の大山寺において、その発展に尽力する。大山寺の三代目の座主に空海を引っ張ってきたのは徳一大師であります。空海は徳一大師は敬意を払い徳一大師との接点を大事にしたようだし、空海はまた東大寺とのつながりを非常に大事にした。このように、良弁(ろうべん)と空海と徳一大師の三人は東大寺と大山寺で繋がっております。そしてその延長線上に明恵(みょうえ)がおります。なお、鎌倉の長谷にある石碑によれば良弁の父・藤原時忠は藤原鎌足の玄孫ということになっているので、もしそれがそれらしき真実を語っているのであれば、良弁と徳一大師はかなり近い親戚ということになるわけです。良弁の開基した大山寺に徳一大師が助力するのも頷けることではあります。

【慧日寺(えにちじ)(磐梯町)】

 

【勝常寺(湯川町)】

 勝常寺は、会津中央薬師堂とも称される徳一大師創建の名刹。1200年の歴史と東北を代表する国宝及び国重要文化財12躯を有しています。仏都会津を象徴する御仏、中央薬師(木造薬師如来坐像)は両脇の日光・月光菩薩像と共に国宝指定。これだけ多くの平安初期の仏像が一ヶ所に保存されているのは我が国でも珍しいといえます。

 

【福満虚空藏尊圓蔵寺(ふくまんこくうぞうそんえんぞうじ) (会津柳津町)】

 日本三大虚空蔵のひとつとして、人々から厚い信仰を集めております。約1,200年前に徳一大師によって開創。ご本尊の福満虚空蔵菩薩は弘法大師の作と伝えられております。また、400年前の大地震の時に赤毛の牛が寺を再建する資材を運んでくれた「赤べこ伝説」があり、ねぎらいを込めて開運「撫で牛」を建立したことから、赤べこ発祥の地と言われております。この撫で牛は幸せを運ぶとされ、会津の民芸品赤べこの由来にもなりました。

  

【如法寺(西会津町)】

 大同2年(807)仏都会津の祖、徳一大師が坂上田村麻呂の祈願により創建。御堂の形は西方極楽浄土へ導く意味をあらわし、東西向拝口と三方開きで、我が国唯一の構造。会津ころり三観音のひとつ鳥追観音。なで仏をなでると病魔が取り除かれ、安楽往生がかなえられるといいます。また、子授け・安産・子育てのご利益あり。左甚五郎作「かくれ三猿」が有名。

【鳥追観音】

 【隠れ三猿(左甚五郎作)】

【如法寺の徳一大師像】

 

 高僧の徳一大師が導いた仏都会津の歴史は、とにかく奥が深いです。私はますます会津の魅力にとりつかれてしまいました。

【記者 鹿目 哲生】      

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

2020年07月号 vol.33

笹竹は古くから厄よけの力を持つ聖なる植物とされていました。江戸時代に願いご...

2020年06月号 vol.32

152年前の5月に奥羽列藩同盟が結成され、仙台藩をはじめ同盟軍がこぞって白...

2020年04月号 vol.30

弥生3月桜の季節になった、このマガジン30号が発刊される頃はすでに葉桜とな...