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ザ・戊辰研マガジン

2020年05月号 vol.31

2020年5月 今月号の表紙

2020年05月06日 20:46 by norippe

 戊辰戦争後、約1万7000人の会津の人々が領土を追われ、陸路や海路で斗南に移住します。新潟から海路でやってきた人たちが、初めて上陸したのが、釜臥山の麓にあるここ大湊。港に到着した会津の人々は、港から見える釜臥山を会津の磐梯山と重ね合わせ故郷を偲んだと言われ、「斗南藩 三合扶持が足りぬとて 焚かぬ前から釜伏の山」という狂歌が残っています。

 JRの大湊駅の南側の海岸沿いの静かで寂しい場所に「斗南藩士上陸之地」の標柱があります。標柱の奥の海岸沿いを進むと、斗南藩士上陸之地を記念する立派な石碑が建っています。石碑は鶴ヶ城の石垣と同じ慶山石を会津から取寄せて使用し、会津若松の方角に向って建てられているのです。

 1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いに始まった戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられたまま廃藩になり、所領をすべて没収された会津松平家は翌年、松平容保の子である容大(2歳)を藩主として家名存続を許されました。28万石あった所領は3万石まで格下げられ、新領地として斗南の地(現在の三戸、上北、下北の3郡と岩手県の一部)を与えられ、ここに斗南藩が成立したのです。しかしこれは全国唯一挙藩流罪という大変厳しい処分ありました。
 明治3年5月、希望と悲壮感を抱いて藩士やその家族17,000人の移動が始まりました。海路あるいは陸路をたどり、長い年月を費やして斗南の地に降り立った。しかし入植した藩士たちの生活は困窮を極めたのです。

 「みちのくの 斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答えよ」と斗南藩権大参事であった山川浩が言わしめたほどでありました。開墾に夢を託した藩士たちでありましたが、志半ばにして命を失った者や、この地を去るものが続出したのです。翌年明治4年7月14日、政府は廃藩置県を断行。9月4日には、斗南、七戸、八戸、黒石、館(旧松前藩)の五県が弘前藩に統合されたことにより、 斗南藩はわずか1年で消滅することになったのです。その後、多くの藩士はこの地を去りました。
 このように斗南藩の治世は1年余りと短命ではありましたが、会津人の先見の明と一徹なまでの姿勢は、この地に残した功績が大きいと言えるでしょう。

 斗南の名の由来は数説あり、一説は中国の詩文の中にある「北斗以南皆帝州」から出たと言われています。北のこの地も天皇の国と変わりはなく、ともに北斗七星を仰ぐ民であるという考えによるもので、 望郷への思いと、いつかは南に帰りたいという願いが込められているのかも知れません。
 もう一説は、「南斗六星」を語源とするものであります。これは北斗七星に対してつけられた呼称であり、射手座の中央部を指します。この星座をよく見ると 射手が、永久に放たれることのない矢を隣のサソリに向けているように考えられます。言うまでもなくサソリは薩長藩閥政府であり、射手は当時の会津人の心境そのものと重なり合うのです。

 今月のマガジン表紙では、当記者の丹下さんの釜臥山の写真をベースに使わせていただきました。

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