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「村上殿の日々徒然」

2019年08月02日 17:38 by murakamidono

I 奈良で正則日本史を学ぶ

 私の第二の故郷は奈良である。ここで、私は正則日本史を学んだような気がする。 私の意見を読んで気分を害する人がいるかもしれないが、私が書くことは、「人から学んだこと」である。正則日本史を学ぶとところは今はないと思う。教える人は部落の人である。

 奈良と村上市の違いは、奈良には「食べ物」が豊富でない。大きい神社仏閣があるが、それを作るために苦労した人たちがいる。そのため、奈良には「部落」問題が多い。

 村上市には、戦後まで「部落」があったが、それは「集落」という意味で、差別という意味はない。

 奈良で私は広範囲に歩いた。墓地も歩いた。不思議に思うのは、墓碑に「獣」という戒名が彫られていることがある。この解釈には二つある。士農工商の次に来る人々に「獣」を書いたという解釈。もうひとつは馬頭観音があるように、江戸時代、獣は貴重であった。「獣」と書いても差別には当たらないという説。

 人を差別する風潮は、明治維新以降強くなった。我が生家には多くの「地券」が残されているが、田畑を調べに来る官の人は大威張りである。福沢諭吉は「天は人の上にひとをつくらず、人の下に人を作らず」と言った。多くの知識人もこの言葉が好きであるが、この言葉は米国にある言葉を翻訳したに過ぎない。こうして大日本帝国が始まる。 「米国軍には、どうしても許さない思想」が薩長によって作られた。日本の知識人はこれを知らないようだ。

 私は最初、平城京の近くに住んだ。 「あの辺に幽霊が出る」というので、夜中に、行った。仁徳天皇のお妃が、その池の中に眠っているというのだ。幾分気味が悪い。耳を澄ましたが、何も聞こえない。

 どうも仁徳天皇とお妃の仲が良くなかったらしい。天皇のお墓は大阪にあり、大きい。ところが、お妃にとっては、仁徳天皇は「ろくでもない人物」だったらしい。お妃は「コンナ奴と同じ墓で眠れるか」というわけである。仁徳天皇の父が応神天皇である。応神天皇の父が仲哀天皇である。仲哀天皇もお后とうまくゆかず、天皇家に最も深い傷を残している。雄略天皇も相当の「あばれんぼう」である。

 応神天皇は八幡神社にまつられている。仁徳天皇がまつられている神社もある。 私の故郷にも、ある人物が神社にまつられている。ところがその同じ人物が 近くの集落では「ろくでもない人物」となっている。村人が、その「ろくでもない人物の首を切って、川に捨てたら、笑いながら死んでいった」そうだ。気味の悪い話であるが、2年前にその集落へ行って村人に聞いたら、知らなかった。ところがその話を知っている人が一人いた。

 「神武天皇から仲哀天皇までは架空の天皇で史実でない」という史学者もいるが、そういう人は奈良をくまなく、調べていないのだろう。  私が書く内容を読むと、気分を悪くする人がいると思うので、これで締めたい。私は共産党とは無関係であるが、『獄中十八年』(徳田球一、志賀義雄著;昭和22年発行)に、鹿児島と山口県萩を書いてある。奈良の部落出身の語り部は「部落問題は奈良と、もう一つの県が顕著だ。」 私は「聞くだけ。時間があったら確認するだけ」である。

 徳田は当時の鹿児島気質について書いているが、ここには引用しない。各自、読まれるとよい。p18。徳田は船問屋の主人と琉球人の妾との間に生まれた。徳田が、そのように書いている。志賀は「山縣有朋、伊藤博文らの長州閥の大御所どもは、軍閥、官僚の勢力を利用して、人民を圧迫する悪い人間である。萩は軍閥、官僚の原産地である・・・」「私の家の前には高杉晋作の生まれた家があり、うちぐらの方には 木戸孝允の家もあった。おなじ町内に『田中義一閣下誕生の地』という石碑もある。」「学校では吉田松陰の「士規七則」を中心とした一種のスパルタ教育をうけた」と書いてある。戦前の軍閥のやり方を克明に書いてある。また当時の山口県の貧困状態を書いてある。

 古事記は天武天皇のとき「古事記に読まれるように」書いた本である。 「古事記を読むことはよいが、古事記に読まれて、武器を持つのが許せない」というのが米国の思想である。これが日本では知られていないようである。薩長連合は、古事記に完璧に読まれたのである。その打ち止めが広島と長崎である。

 一方、昭和16年、『皇国の書』(森清人著)が出版された。戦後、この書の思想に心酔した人が、連合軍(米軍)によって処刑されたり、公職追放された方が多い。 徳田と志賀は連合軍によって、刑務所から出ることができた。これを知らない現代の共産党員。 その昔、宇陀市に「大和国」があったそうだ。邪馬台国という説もある。宇陀市、熊野、伊勢、松坂などの地域である。当時は女性が政治の頂点に立っていたらしい。「そのむかし、日本は女性の国だった」という政治運動家もいた。

 この大和国は稲作に伴い、徐々に、桜井の方に下って行った。そこに、巨大な建物を建てたらしい。それが「卑弥呼の住んでいた所」という史家もいる。  その「女王の国」が神武によって、攻められ、ほろんだらしい。「古事記」はあること、ないことをうまく織り交ぜて編んでいる。「古事記を読む人を読む」のが天武天皇と持統天皇の目的である。薩長は「完全に読まれた」のである。マ元帥は「古事記に読まれるな」と言った。

 魏志倭人伝から、「女王国」「水銀」がキーワードになる。「女王国は女性が権力を持っていた」のだろうか。「水銀」を掘った形跡はあるのだろうか。 自転車で廻っているとき、神武と大和民族が戦った戦場が数か所見つけた。水銀の山も見つけた。女性上位の証と女王の住んでいた跡も見つけた。

 神武は宇陀市を攻略するのに、最初は、西の方から攻めたが、だめで、今度は熊野の方から攻めた。時代的には「卑弥呼」の孫ころである。7年もかかっている。しつこい。宇陀の榛原あたりに、「ながすねのみこと」という将軍がいて、彼の妹が、当時の王様の妻だった。この王様が、三輪あたリに住んでいたようだ。

 当時、榛原を「萩原」といった。「ながすねのみこと」は「とりみやま」にいたが、敗北し、部下の一味が長野の諏訪の方へ逃げた。もう一団は千葉県柏市の東の方へにげた。印旛沼の方である。「祟りがなければ」と思っている。

 実は「神武は日本人でなく朝鮮から来た」という説がある。そうすると、天皇家は朝鮮人ということになるが、以前に書いたように、神武血統は、仲哀天皇で終わった。

 天武・持統天皇も壬申の乱を起こしたが、やがて天武・持統の血統は終わる。 私は「祟りか」と思うことがある。「ながすねのみこと」は本当の名前でなく、勝者がつけた名前である。「すね」は「足の下の方で、1尺でマムシのことである」。神武東征の後、悪病が奈良に流行った。「ながすねのみこ」は三輪神社にまつられたが、マムシとともに。蛇の好きな卵と酒を持って初詣する人が多い。

 「世界に類例のない天皇は日本独自の文化である」と思う。 天皇は格が違う。薩長が何を言っても、天皇家には入れない。「彼らは負け犬の遠吠え」に過ぎないのである。もし、薩長の末裔が天皇になったら、天皇家は米国、中国、韓国、北朝鮮、ロシアの天敵になる。それは天皇家の終焉を意味するだろう。

 奈良から米国へ行き、米国に10年滞在した。米国の防衛機関にも勤務し、また奈良に帰った。米国での恩師は台湾の出身。ユダヤ系とヒットラーの演説を聞いた、おばあさん達の家に住んだ。

●米国では「日本人は好戦的である」と小学校から教えられている。好戦的な薩長思想が、負の遺産になっている。

●明治維新以降、「朝鮮人」というような言葉が蔓延ったが、多くの韓国人と交流した。何も変わった民族ではない。

●日本には、ユダヤに関する本が多いが、ユダヤ人の家族の家に住んだ著者はいないようだ。反対に、ユダヤ人は日本人に好意的であることが分かった。

●米国の政治家が中国へ行った。「日本は大変になる」と思った。 米国の元国務長官も、今は「こんなはずではなかった」と後悔しているだろう。

●1979年、日本に帰国。驚いたのは「日本での受験勉強がすさまじい」ということ。 米国の大学知識人は「日本の受験勉強で、日本はだめになる」と言った。日本人は「なぜ、だめになるかわからない」ようだ。

●S社に勤務し、驚いた。自分の家族にとって都合の良いことを考えている。閨閥である。台湾の政財界の重鎮が「お前のいる会社の経営者は頭が狂っている」といった。 S社の経営者は「自分の頭が狂っていると思わない」。「狂い」を直す薬はない。私は、その会社を去った。

●あれから、30余年。ほとんど予想したようになった。

☆ 戊辰戦争時、村上藩藩士の意見は二つに割れたそうだ。時の藩主・内藤信民 に代わり、20代の家老・鳥居三十郎が指揮することになった。

 鳥居は村上城下町を火の海にしてはならないと、戦場を北の方の鼠ヶ関に移す。 城下町の北にある上片町を出て、門前川を渡ると、山辺里(さべり)集落である。 そのまま北へ進むと、道が左と右に分かれる。左を通ると、やがて三面川がある。 この辺で、ある藩士が「あっ。城が燃えている」と叫んだそうだ。鳥居が家臣に「城に火をつけるように」と命令してあったようだ。なお、この当時は、天守閣は落雷のため、なかったように思う。

 こうして村上藩は終わったが、今年、「鳥居三十郎先生百五十回忌法要」が行なわれた。150年たっても、忘れていない人物である。

  戦後、私は日米で、軍関係機関に所属したが、「旧軍では、村上気質は戦争に向いていなかった」といわれた。歴史をさかのぼると、そんな気もする。

 いま、村上は全国的に知られつつある。来年、皇后陛下になる方のご先祖は村上藩士である。当時、誰もが予想しなかったと思う。

  戊辰戦争で、官軍は「赤い毛」「天照大神」などのノボリを持って、村上藩士の妻子をおいかけた。妻子は「山辺里橋」を渡って逃げた。米国白人思想は「天照大神のノボリを掲げた軍を断じて許さない」という思想である。日本人はこの理由を知らないようだ。 米国は大学院含め、軍事研究一色です。

 現在、米中対立があるようですが、世界から信頼され、尊敬されないとダメである。所詮、中国の産業も米国の真似。米国はいろいろ批判されているが、「批判する人の足が米国を向いている」。薩長は戦うことばかりで、世界的には通用しない。会津が萩と親睦するような話もあるが、志賀義雄が萩について書いている。まずは、それをじっくり読む必要があるのでは。

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