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大和・天領の百姓一揆 「芝村騒動」、その2

2019年07月27日 19:39 by tama1

大和の歴史 大和・天領の百姓一揆「芝村騒動」その2、

前回からの続きです!

 先ずは「大和の天領地」から始めましょう。 前回、紹介した上島秀友著「芝村騒動」の「はじめに」の項に次のように書かれ ています。江戸時代の大和の百姓、特に天領(幕府直轄領)の百姓は過酷な年貢の取 り立てもなく比較的恵まれていたと思われがちです。

  吉田松陰は幕末の嘉永六年(1853)二月に、大和五條の儒者森田節斎を訪れるため、 大坂から竹ノ内峠(葛城市竹内)を越えて大和に入ります。 峠を越えた松陰の目にとまったのは、「菜葉麦芽接空緑、一望澹々春正和」(葵丑遊 歴日録)という早春の風景でした。 今でいうと三月頃のこと、二毛作の麦や換金作物である菜種などが一面蒼々とし、立 派な 大和棟の村々が点在している風景を一望し、大和の農村の豊かさに感心しています。

  司馬遼太郎の母はその当麻の竹内出身ですから、少年時代は母親の実家で過ごすこと が多く、サヌカイトの石器を探したことなど懐かしい思い出を「竹内街道」(峠を行 くⅠ) に書いています。「半分以上は奈良県人」と自認する司馬遼太郎が「この国のかたち 二」 の中の「天領と藩領」で、大和の天領に触れています。 大和の良さは古寺だけではなく、民家もそうである。もし古寺が、白壁・大和棟と いったこの地方の大型農家に囲まれていず、裸で野に孤立しているとしたら、 大和の景観はよほど貧寒としたものになるにちがいない。 白壁・大和棟は、天領の租税の安さの遺産と考えていいと言っています。

  その昔、天領地であり、幕府直轄の代官所もあった大和五條に生まれた私も、歴史好 きな 叔父から、天領地の民は恵まれていたこともあり、五條の町は栄え、医者や儒者など 多く の教養人や文化も育まれたのではないだろうか・・・と教わったものでした。

  江戸初期を過ぎると、幕府財政が苦しくなり、五代将軍の時に毎年の支出が収入 の倍になり、財政がゆきづまっていきます。八代将軍吉宗の在任中(1716-45)に享 保の改革が行われ、緊縮財政と年貢増徴策が推進されました。

  特に元文二年(1737)以降、老中松平乗邑(のりさと)と勘定奉行神尾春央(はるひ で)により、年貢の徴収はいっそう過激になっていきました。 神尾が放言したとされる「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」という映 画の悪代官が使うような台詞が実際にあったとは驚きです。 それで、幕府は、年貢増徴のために天領の年貢の徴収を近隣の大名に行わせるという 御預所(預り地)制度を実施します。

  このように、天領地といえども血の滲むような百姓の忍苦があり、藩領の百姓以上に 辛酸を嘗めるような苦難の時期があったことはあまり知られていません。まさにこの 芝村騒動こそがそれに相当するものでしょう。

  それではこの時代の「芝村藩と幕府の関係」について学んでおきましょう。 大和国では天領約20万石のうち15万石が芝村藩・高取藩・津藩の三藩に預けられまし た。 延享元年(1744)には高取藩の預り所は召し上げられ、それ以後は芝村藩と津幡の二 藩 に預けられます。

 その芝村藩ですが、織田信長の弟織田有楽斎(長益)が大和に賜っ た 三万石の所領が元和元年(1615)に三分割され、四男長政がその中の一万石を分与し ても らい、戒重村(現桜井市戒重)に陣屋が置かれたことから戒重藩と呼ばれたが、延享 二年(1745)に藩庁が芝村(現桜井市織田。藩庁跡は織田小学校)に移されてからは 「芝村藩」と呼ばれるようになりました。

  芝村藩については、4年前に「大和の藩シリ-ズ」として巡っていましたので、その 時の記事を参照していただけると嬉しいです。その時の記事はこちら→芝村藩

芝村藩陣屋跡

現奈良県桜井市織田

  織田小学校敷地 芝村藩七代藩主織田輔宣(すけよし)の治世中、芝村藩の預り地は増える一方で、寛 保二年(1742)には五万石、延享三年(1746)には八万九千石余を預かるまでになっ ていきます。

  預り地に対して徴収した年貢の3%に相当する口米(手数料)が与えられたから預り 地の増加は、芝村藩の財政を潤しました。総陣屋面積が八町二反三畝九歩(約1.23ヘ クタ ール)に及ぶような立派な藩庁を作ることが出来たのも、増加した預り地の恩恵によ るものと書かれています。

  幕府にとっても芝村藩はありがたい存在であり、同藩への預り地を増加させていった のです。

 寛保元年(1741)には「芝村藩、杉浦弥左衛門・吉田千左衛門に対し将軍家 桧間に於 いて弥左衛門に銀三十枚・時服三枚、千左衛門には銀二十枚、時服二枚拝領」と勘定 奉行から直々に褒章があったほどです。このように芝村藩の年貢取り立ては、幕府の 国吏、 神尾春央の意向に沿う形で、杉浦弥左衛門や吉田千左衛門ら家臣の手によってエスカ レ-トし、芝村藩や幕府が潤う分だけ百姓たちが困窮していったのです。

  百姓たちが芝村藩や京都奉行所に対し、何度箱訴をおこなっても取り上げて貰えな かったのには、こういった背景があったのでした。 では、芝村藩の取り立てが如何に理不尽なものであったのかについては、十市郡九村 の代表たちが、耳成山にて決起し、作成した「願書」に委細が書かれていま すが、長くなりそうなので、次回に続きます。

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