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ザ・戊辰研マガジン

2019年08月号 vol.22

【先祖たちの戊辰戦争・八】二本松・米沢

2019年08月03日 22:26 by tange
2019年08月03日 22:26 by tange

 私の高祖父・鈴木丹下は、慶応4年(明治元、1868、戊辰)正月3日に勃発する鳥羽・伏見の戦い直前の元日、二本松藩へ会津藩主・松平容保(かたもり)の親書を携え赴いた。そこで、隣藩として、衰退に向かう徳川家の中興のために二本松藩の尽力を要請した。
 さらに同年2月2日、容保から家督を譲られた松平喜徳(のぶのり)の使いとして米沢藩へ赴き、容保の救解をお願いした。

 菊地明編「会津戊辰戦争日誌(上)」慶応4年1月1日の項に次の記述がある。
 『江戸の鈴木丹下と土屋鉄之助、二本松藩士・中島黄山を訪ねて丹羽一学に面会し、幕府への尽力を願い、藩主・丹羽長国の応諾を得る』
 そして、その典拠となった黄山の「明治元年御国許始末」に『会津御使者、鈴木丹下、土屋鉄之助、本町小松屋宿所より私に面会致し度旨申参り候に付、………』と記されている。
 本町(もとまち)とは今に続く城下の町名で、JR二本松駅の北側直ぐの辺りである。
 私は、二本松城跡(霞ヶ城公園)へ向かう前に、丹下らが宿泊した小松屋を探すことにした。そのため、本町の二本松市歴史資料館を訪ねた。
 歴史資料館には、残念ながら、当時の家名入りの地図や文献は残されていなかった。学芸員の方が大正初期の辺りの住宅地図に「小松」の姓を見つけた。ただ、その家は宿所ではなく回漕問屋を営んでいた。
 過去の事実を探すため古い住宅地図を使うことは、大変有力な方法である。曾祖母が斗南の田名部に着いた時に長逗留した宿屋「菱千(金千)」を探す時、むつ市生涯学習課でも古い住宅地図が使われた(本誌17号記事参照)。
 そこは、奥州道に面した大手門(跡)から徒歩3、4分のところで、夜は賑わっていそうな飲食街の真っ只中。その場に立つと、丹下らが黄山の返事を待っていらいらしている様子が目に浮かぶようだった。
 いずれにしても、根拠となる史料が無い推定であり、小松屋宿所は特定できなかった。

 阿武隈山系に位置する二本松城の頂上本丸跡に辿り着くためには急峻な山道が続き、予想をはるかに超えた苦しい登山となった。しかも、市街地に面した大手門跡から、一旦、急な久保丁坂を上がり切り、きつい下り坂を往きやっと城の正面、箕輪門に着くという二重の要害地形となっている。
 戊辰戦争の時、新政府軍も城を陥落させるために、大変苦労したに違いない。この度、我が身をもってそれを理解した。
 最初に越えた城の前衛となっている峰の上に、幕末までこの地を治めていた丹羽家に縁の二本松神社がある。現在の社殿・拝殿は、文化3年(1806)に造営されている。JR駅から北へ直ぐのところに鳥居があり、そこから一直線に目が回るほど急で天までも届きそうな階段が造られている。この峰の険しさが良く分かる参道である。

 城を守るために奮戦した二本松少年隊の悲劇も忘れてはなるまい。箕輪門では、平成8年に建てられた彫刻家・橋本堅太郎氏制作の戦う少年たちと一人の母親の像が、今は静かに私たちを迎えている。


二本松城本丸跡より城下を望む

 梅雨の晴れ間、山形新幹線を使って米沢に向かった。
 米沢駅前は、豊臣時代には五大老に列していたほどの名門、上杉家の旧城下町の表玄関として、少し寂しい風景であった。
 駅前が必ずしも繁華であるべきと考えているわけではないが、ここを訪れた人々に長い歴史に育まれた風格を感じさせるような景色がほしいと思ったのである。例えば、駅前に杉木立から成る緑地を広い範囲で展開させるなど考えられないか――。
 一方、地方都市としての米沢市の構成は極めて明快だ。駅前から西へ向かう道が最上川にぶつかる辺りで八谷街道となり、それが米沢駅と上杉神社(米沢城址)とを結ぶ東西の都市軸になっている。
 その東西軸に直交するように最上川河畔が広い緑地公園となり、市役所から市立病院の辺りまでを結ぶ南北軸となっている。
 米沢市街は、近世から続く街道と東北地方有数の河川を、直交する主要な都市軸として心地よい拡がりを見せている。
 八谷街道(会津街道)を西へ進み、南へ折れると会津若松に達する。二つの街の人々は、江戸の時代から、この街道を介して交流があり緊密な関係を築いていた。

米沢城は、明治になり、上杉謙信を祭神とした上杉神社になった。今では、かつての本丸を囲む濠と石垣が残るだけである。
 現在の上杉神社社殿(国指定の重要文化財)は、米沢出身で米沢名誉市民第一号の建築家・伊東忠太の設計である。
 伊東は、明治から昭和初頭にかけて活躍した建築家で、東京の築地本願寺(国・重文)も彼の作品だ。その浄土真宗の寺院は、古代インド様式を彷彿させる奇抜な外観を見せている。さらに京都にも、やや奇をてらった複数の作品を残している。
 しかし、この社殿は伝統の木造建築様式を踏襲し、屋根、壁、床が美しい比例をもって構成されている。伊東の正統派建築家としての一面を示す優れた作品だ。
 かつて濠に架かっていた木橋が石橋に変わり、一直線に社殿につながっている。表参道である。


上杉神社(米沢城址)


上杉神社(米沢城址)の濠に架かる朱橋

 慶応4年(1868)2月2日、鈴木丹下は米沢城の木橋を渡っていた。
 菊地明編「会津藩戊辰戦争日誌(上)」に、『その日丹下は、松平容保から家督を譲られた喜徳の親書を携え米沢藩主・上杉斉憲(なりのり)に目通りし、先の藩主の救解をお願いした』と記されている。
 その前後のことを時系列に並べてみる。
 
慶応4年1月3日~6日、京都鳥羽・伏見にて戊辰戦争勃発、会津軍敗走
 同年1月24日、新政府が米沢藩に、仙台藩の会津追討の支援を命令(米沢市史)
 同年2月 2日、鈴木丹下、上杉斉憲に目通り(会津藩戊辰戦争日誌)
 同年2月26日、米沢藩と仙台藩が会津救済を協議し合意(米沢市史)

 2月2日、丹下が容保の救解をお願いした際に、容保が文久3年10月に孝明天皇から賜った御宸翰について、その写しを差し出し言上していたと考えるのが自然である。
 つまり丹下は、『先帝、恐れ多くも容保へ、感謝と信頼を伝える宸筆を賜る』ことを、斉憲に申し上げたのである。
 このことが、米沢、仙台両藩の会津救済合意につながったのではないかと考えた。
 私は、事実確認のため、米沢市教育委員会文化課を訪問した。
同 課のA氏は、「上杉家御年譜十七・斉憲公(三)」という書物から2月2日の出来事を探してくれた。そこに会津藩士・鈴木丹下の訪問がはっきりと記されていた。しかしこの時、藩主・上杉斉憲は、からだの具合が悪く、丹下に直接会っていなかったようだ。
 私は、丹下が伝えた容保への御宸翰の存在が米沢、仙台両藩の会津救済合意につながったのではないか、との仮説を臆面もなくぶつけてみた。
 A氏は少し笑って次のように述べた。
 「米沢藩は、元々お家断絶の危機を会津藩祖・保科正之の奔走によって救われたことに、深い恩義を感じていた。さらに、斉憲の嫡子が容保の実妹と婚姻関係にあったことが、会津救済に繋がったのでしょうね」

 それでも私は、米沢市役所を後にして上杉家廟所に向かいながら想像していた。
 上杉家当主が代々受け継いでいた瓜実顔の斉憲が、丹下の置いていった孝明天皇の御宸翰の写しを凝視し、「会津は朝敵ではない。助けねば……」とつぶやく姿を――。


上杉家廟所

 その後も丹下は、水戸藩を追われた諸生党一派を案内して佐渡島への湊町・出雲崎まで出向いたり、越後の村松藩に支援の要請をするなど、戊辰の時、窮地に追い込まれた藩の外交に尽くしていた。
(令和元年6月、平成26年6月、鈴木 晋)


(次回は、鈴木丹下が藩の密命を帯びて越後の水原、出雲崎へ行く様子を記します)

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