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おやじのブログ、その10、〈北米合衆国水士拍理上陸記念碑〉

2022年04月26日 22:34 by minnycat

 〈北米合衆国水士拍理上陸記念碑〉 十二代将軍の喪を隠し、老中阿部正弘は、アメリカ大統領の親書の訳文ができると直ちに徳川斉昭を訪ね懇談した。 当然、溜間詰の諸藩士にも相談したと思われるが、老中阿部は諸大名や幕府所役人にも「公表」して意見を求めた。さらに「町触れ」して市民からの建言も許した。

               -◇-

 大名から約二百五十、幕臣から約四百五十が提出されたという。しかし、幕府は「良案」が得られずに、十一月に「開国」についての明確な返答はしない事を決定したのである。 しかし、この「建言」は今まで幕府は一度も行ってこず、「外様大名」も含めて意見を求めたことは、また幕臣にもなかった事であり、「画期的」であった。また、「事態」を「朝廷」に報告した。これも、今まで政治の圏外に置かれてきた朝廷の政治的地位を重からしめる結果となっていくのである。

 ペリー提督 「ペリー」の来航は、幕府、否、日本にとって、とてつもない大きな衝撃と外国との大きな差がある事を知らされた。

              -◇-

 この頃、日本は「米中心の経済」の行き詰まり状態であった。また「不作」による飢饉・一揆も芽生えていた。幕府の政治に限界が感じられもした。しかし、約二百年続いた幕府・武士の社会である。市井の者には、まさか幕府が次第に権威が落ちている事には、多少はあったかも知れないが、幕藩体制は永遠にと考えているものが殆んどであった。

              -◇-

 しかし、老中阿部正弘が始めて行った幕府の「詔門政策」がやがて国中から「政策」「国事」について建言(発言)する風潮が強くなっていく、大きな、重大な出来事であった。 ペリー艦隊の錨を作ったもの。

  ペリー提督 〈上陸記念碑前のプレート〉 ペリー提督 〈碑文〉

〈ペリー来航とと艦隊の航路〉 1853年7月8日、浦賀沖に来航したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官M.C.ペリーは7月14日、ここ久里浜の海岸に上陸し、大統領フィルモアの親書を江戸幕府に渡した。

 翌年、神奈川において日米両国間に和親条約が締結された。この一連の出来事は、幕府支配そのもとに鎖国を続けていた日本を、世界へと引き戻す原動力となった。

 ペリー来航より48年後の1970年7月14日米友協会の手によって、日本開国ゆかりの地として、ここに記念碑が建てられた。

〈ペリー来航関連資料〉 ペリー提督 泰平のねむりをさます じょうきせん たった4はいで 夜も寝られず

           -◇-

 〈じょうきせんの碑〉 江戸幕府は約二百年にわたり、外国タオの通商交通を禁止する鎖国政策をとっていたが、その日本に対して突如として泰平の夢を破るように1853年7月8日(嘉永六年六月三日)開国を迫る四隻の黒い艦隊が浦賀・鴨井沖に現れ、同艦隊は六日後に久里浜に上陸した。この艦隊の指揮をとっていたのが、ペリー提督であった。

 江戸湾の守備に当たっていあた諸藩の藩士や浦賀奉行所の人たちは、この大きな黒船の姿を見て、驚き動揺した。開国を促す黒船の来航に、幕府要人は勿論のこと、その威容を見聞した人たちの驚きはどんなであったろう。その驚きを端的に表現したのが、この落首である。なお「久里浜村誌」によれば、この落首は老中松平下総守(間部詮勝)の作といわれている。 

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