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林忠崇 脱藩大名の戦い

2022年05月05日 12:34 by norippe

 上総国(かずさのくに)、今の千葉県であるが、その千葉県にある木更津に請西藩一万石の林家があった。徳川家と強い絆で結ばれていた林家、幕末の請西藩のお殿様が林忠崇(はやしただたか)で、若く凛々しい美丈夫の藩主であった。
 この林忠崇は昭和まで生きた最後の大名である。しかし、その長い人生も波瀾万丈、数奇な人生を歩むことになる。一体、林忠崇は何をしたのだろうか。その人生を追ってみた。

 神奈川県と千葉県を結ぶ東京湾アクアライン、林家が治めた請西藩がこの日本一長い橋の先の木更津にあった。江戸の近くにあってとても栄えた港町の木更津。江戸日本橋に林家専用の船着場が設けられるなど、幕府にとって重要な林家はこの木更津を任されるほど信頼の熱い譜代大名であった。1867年6月に林家の当主となった忠崇、当時20歳。武術の腕前は槍も刀も超一流。絵や和歌を習えばみるみる上達するという、まさに文武両道。さらに藩士と一緒に砲術を学ぶなど性格もとても親しみやすく、将来は幕府の老中にもなれる器だと噂された。


請西藩主の林忠崇

 ところが、大名になって4ヶ月後、日本を揺るがす大事件が起こった。大政奉還である。将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上したのだ。政治の実権を握った新政府は慶喜の討伐を決行。慶喜は謹慎するが新政府が許さず、命も奪おうとした。
 この時、周囲の藩は新政府に次々降伏。忠崇だけ標的にされかねない。忠崇には徳川家を見捨てられない理由があったのだ。

 林家に伝わる兎の兜がある。このうさぎには深い意味が込められていたのである。
 林家のルーツは長野県松本市にあった。この松本市の善光寺に保存されている絵図に松本市の名所が紹介されている。そこに記されていたのが林家と曾代である林光政。そしてその絵図には林光政が弓をひき兎を追う姿が描かれている。
 室町時代半ば、松本にいた光政のもとに古い知り合いが訪ねて来た。世良田有親と親氏である。戦に巻き込まれて全てを失い落ち延びてきたと言う。憐れんだ光政はご馳走を用意しようと雪の中、狩りに出かけたのだ。その狩りに出た場所は田んぼの畦道、現在もその場所は田んぼになっていて、兎田と言われる場所である。光政はこの田んぼの畦道で一匹の兎を捕まえた。光政はその兎で吸い物を作り、親子をもてなしたのである。
 その後、息子の親氏は三河国で勢力を伸ばし徳川家の祖となった。そして親氏は、光政から受けた恩を忘れることは無く、光政を徳川の家臣としたのである。
 それから150年、8代後の子孫徳川家康はこの逸話にちなんだ行事を始めた。それが献兎賜杯(けんとしはい)である。毎年暮れ、林家は将軍に兎を献上。元日には祝いの盃を一番に受けた。徳川第一の家臣。兎には林家の誇りが込められていたのである。

 光政公以来400有余年、忠崇は徳川家の恩義を忘れることは出来ない。しかし忠崇には悩みがあった。
 新政府軍と戦うにしても、地元の上総方面で戦うと自分の領民や周辺の藩に迷惑がかかる。地元を戦場にすることは不本意だと、地元思いの忠崇なのである。徳川を裏切らず領民も巻き込まない方法はないものか。忠崇は考えた。そしてその決断を家臣に伝えた。
「決めたぞ!」
「我は脱藩いたす」
「この領地は朝廷に返し、忠崇は徳川に使えるただの武士となり、命をかけて戦う。」
「それゆえの脱藩じゃ!」
 大名の脱藩は前代未聞であった。藩の方針を決めるべき藩主自身が脱藩するという、大変驚きの決断を下した忠崇であった。忠崇の熱意は多くの請西藩士をも動かした。3年間寝たきりだった家臣から少年までもが出陣を願い出たのである。

 そんな時、ある人物が忠崇を訪ねてきた。旧幕府軍遊撃隊の人見勝太郎と伊庭八郎である。
「遊撃隊の名を聞いておる。当藩に何用か?」
 遊撃隊は幕府軍きっての先鋭部隊。徳川家の回復のためご忠崇の助力賜りたいと願い出たのである。遊撃隊が徳川の回復をせつに願っていることを知った忠崇は、共に戦うことを決めたのである。そして領民に別れを告げた。

 1868年、忠崇は浪士とともに出陣。屋敷には火が放たれた。決して戻らないという覚悟であった。徳川家そして領民への思い。忠崇は史上ただ一人の脱藩大名となったのである。

 徳川将軍家と大変縁の深かった忠崇の林家、そのことは林家の家紋にも強く刻まれていた。家紋の丸が盃、三つ巴が酒。林家の当主が将軍から杯を受ける元旦の行事「献兎賜杯」を表しているのだ。下の”一”が示すのは盃の順番が一番であること、さらに徳川第一の家臣であること、そのため林家は一文字大名とも呼ばれたのである。代々続く一文字大名の誇りと覚悟に押され忠崇は脱藩した。その行く手には極めて厳しい戦いが待っていたのである。

 出陣した請西藩士と遊撃隊、その数およそ100人。忠崇は他の大名を訪れ、参戦を呼びかけた。すると一度は新政府に頭を下げた藩から合流するものも出て、軍勢は400人ほどになるのである。出陣から10日、忠崇たちがやってきたのが小田原。東海道が通り、小田原藩は要衝箱根関を守っていた。ここを抑えられれば江戸に入る新政府軍の補給を絶ち孤立させることが出来る。しかし小田原藩主は面会拒絶。金は出すが協力はしないと伝えて来たのである。小田原藩は朝敵と言われると大変なことになると気力は萎縮、忠崇に会ってしまったらまずい事になると面会を拒絶したのである。
 説得に失敗し悩んでいたその時、江戸では戦が始まったという知らせは入った。江戸にいた旧幕府軍の彰義隊が新政府軍と衝突。後に上野戦争と呼ばれる戦いが始まったという知らせであった。この機を逃してはならないと忠崇たちは出撃した。向かったのは東海道の要である箱根の関。守る小田原兵を相手に忠崇の初陣が始まったのである。


箱根関

 まず遊撃隊は噂通りの強さで敵を圧倒し、そして請西藩も負けじと攻撃を加えた。なんと一人の負傷者も出さず敵を破った忠敬。小田原藩をわずか1日で全面降伏に追い込んだのである。箱根の戦いは徳川びいきの江戸っ子たちに大評判。後に錦絵に描かれるほどの戦いぶりであった。
 ところが江戸の彰義隊が1日で全滅したため、一度は降伏した小田原藩が再び襲い掛かってきたのである。
 小田原藩と新政府軍に挟まれた忠崇は、やむなく退却。この時壮絶に戦ったのが遊撃隊伊庭八郎であった。手首を切り落とされてもひるまず敵を倒したと言われている。

 次に向かったのが東北。
 当時東北では旧幕府を支持する奥羽越列藩同盟という一大勢力が結成されていた。福島県の磐城平城、ここで忠崇たちは部隊の指揮を任された。到着の10日後、新政府の軍艦が城近くの港から上陸するため近づいて来た。忠敬は全軍を率いて出軍。


磐城平城の本丸跡

 東北一の大藩仙台藩も加わり、遊撃隊を先頭に敵に襲い掛かった。ところが新政府軍の軍艦から放たれる大砲のごう音に、実戦経験のない仙台兵は逃げ出してしまうのである。
 忠崇は「引くな引くな!それでも武士か!」と大声を張り上げるのだが、仙台兵は恐れおののき逃げるばかり。奥羽地方最大の藩なので最も強い藩と皆が期待していたが、全くそれが違っていたのである。敵の上陸を防げなかった忠崇は無念の思いでふたたび退却せざるを得なかった。
 なんとか磐城平城まで引き上げた一行のもとに、江戸の榎本武揚から知らせが届いた。内容は忠崇が待ちに待ったものであった。
 徳川家は駿府で存続を許され将軍慶喜の命も助けられたというもの。新政府が忠崇のような抵抗が広がるのを恐れ、旧幕府側に寛大な処分を下したのである。徳川家を救うという忠崇の目的が果たされた瞬間であった。

 それから三ヶ月、東北諸藩は全て降伏し同盟は崩壊。当時仙台にいた忠崇はこのまま戦うかどうか悩んでいたが、未だ戦う者はいるが徳川は守られ、この上、戦は徳川にも家臣たちにもむしろ迷惑ではないかと考えた。
 9月下旬、忠崇は遊撃隊の人見勝太郎を訪ねた。そして
「もはや戦は決した。決まった以上戦う必要はない。我らは新政府に降る。」
 降伏に対し忠崇は歌を読んだ。
 ”真心の あるかなきかは ほふり出す 腹の血潮の色にこそ知れ”
 徳川家への誠の心があるかないかは、腹から吹き出る血潮で分かるはずだ。それが忠崇、そして林家の者の覚悟であると告げたのである。

 脱藩から半年、苦しい戦いの日々がようやく終わるかに思われた。新政府に降伏した時、切腹を覚悟していたという林忠敬であった。しかし言い渡された処罰は謹慎であった。それも3年後には解かれ、忠敬は明治の世に晴れて自由の身となったのである。ただ命は助けられたものの新政府は忠崇を許したわけではなかった。
 新たな世で大名が皆華族とされ、公爵・伯爵・子爵などの言わば貴族階級。戊辰戦争で新政府に抵抗した大名も同じ待遇であったが、しかし忠崇はただ一人そこから外されたのである。脱藩で大名の地位を自ら手放したことが理由とされた。
 かつて大名だった忠崇は新しい時代では一転、一人の庶民となったのである。そして忠崇自身思いもよらない人生を送っていくことになるのである。


請西藩跡

 1873年、忠崇が最初に向かったのは、かつて住んだ屋敷の跡であった。新たなスタートは荒地を耕す農民。農民となった大名は忠崇だけであった。
 ところが、ある知人から東京府の仕事につかないかとの誘いがあり、忠崇は背広を着た役人になったのである。しかし、戊辰戦争で敵だった人物が上司となったため辞職しまうのである。
 次に忠崇は北海道函館へ向かった。そしてついた仕事はソロバンが得意だったため商人の番頭であった。しかし、わずか2年で店は倒産。
 次から次に職業を変える忠崇であった。

 時代は進み1889年、大日本帝国憲法の交付によって明治維新の時、政府と対立した人々の罪が許された。今なら林家を助けられると立ち上がった人物がいた。父が忠崇の側近だった廣部精(ヒロベクワシ)35歳である。
 廣部精は、幼い頃忠崇の志に胸を打たれた一人であった。かつての主君を支えたい。廣部が明治政府にだ忠崇の脱藩を許し、華族に加えて欲しいと訴えたのである。
 これに対し政府は一つの条件を出し、華族の品位を保つため年間500円の収入が見込める資産を持つこと。現在のお金で数千万円分の財産であるが、当時大阪にいた忠崇は妻や子と貧しさに喘ぐ日々であった。資産などは無く、廣部は自分が力を尽くすしかないと決心した。
 5年をかけ他の元家臣や知り合いの旧大名、更には自分の遠い親戚にも頭を下げて回った。その結果、脱藩から26年が経った47歳、忠崇は晴れて華族となったのである。かつての家臣たち、その支えのおかげであった。


兎田の地

 華族となった後、忠崇はある場所を訪ねた。長野県松本市の林家発祥の地である。室町時代ご先祖様がうさぎを捕まえたあの兎田。忠崇が訪れるのは初めてであった。
 ”うさぎ田を うしとおもはて 我も又 飛て来にけり 深き縁に”
 兎田には面倒とも思わず飛ぶようにやってきた。深い縁に導かれて。


剣道に励む林忠崇

 時代は巡って大正の世。忠崇は道場を開き剣術を教えた。弟子たちと共に武芸に励む日々。二十歳で大きな決断を下し、どん底を味わった忠崇にようやく幸せな時間が訪れていた。
 さらに時は流れ1939年(昭和14年)当時の新聞に「大名ここにあり」と忠崇の記事が載ったのだ。92歳になっていた忠崇は、江戸時代の大名、その最後の一人として注目を集めたのである。

 アパートの一室で娘と二人飾らず穏やかな日々。酒が大好物で毎晩一合ずつ引っかけるのであるが、物足りなくて夜中にちょくちょく飲み、そのちょくちょく飲む分量が多いと娘が笑うという。忠崇は年老いても頭はしっかりしており、「辞世の句はありますか」と、尋ねられた時の事、「辞世はもうやったぞ。あれは明治元年9月21日、仙台でやった。辞世の句は二度ない」と、答えたという。その時の句が
 ”真心の あるかなきかは ほふり出す 腹の血潮の色にこそ知れ”

 また晩年の作として
 “琴となり 下駄となるのも 桐の運”
 という句もある。同じ桐の木でも、琴のように室内でもてはやされる桐も、また屋外でみんなに踏みつけられながらもけなげに生きる下駄になる桐もある。どんな境遇でも精一杯生きなさいと歌った句なのだろう。

1941年1月、太平洋戦争の直前、忠崇は風邪をひいて病の床に着き、そして最後の大名が激動の人生に幕を下ろした。享年94であった。


参考文献:脱藩大名の戊辰戦争
    :歴史秘話ヒストリア

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