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江戸の坂道(目黒のさんまと茶屋坂)

2022年05月05日 12:33 by norippe

 江戸時代、目黒は富士山を眺めるのに格好の景勝地だった。
 ほとんどが農村地帯の目黒であったが、江戸に近い下目黒村と中目黒村には、茶店・料理屋や植木・荒物などを商う店が軒を連ねる一角があった。庶民の参詣や憩いの場として栄えた目黒不動の門前町である。


歌川広重の目黒茶屋坂

 そして目黒は鷹狩の名所として、徳川家からは愛された場所であった。

 江戸から目黒に入る道の途中に「茶屋坂」という坂道がある。
 大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で、富士の眺めの良いところであった。その茶屋坂の坂上に、百姓の彦四郎が開いた茶屋があった。
 三代将軍徳川家光や八代将軍徳川吉宗が、鷹狩りに来た時は必ずこの茶屋に立ち寄って休んだという。特に家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話かけたので、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになった。


茶屋坂


案内板

 現在、この目黒の茶屋坂のあるあたりは想像もできない住宅街になっているのだが、下っていくと古道の面影は僅かに感じる曲がりくねった道筋が残る。
 茶屋坂は、昔はたいへん寂しいところだったらしく明治維新で世情が混乱の頃には、茶屋場はたびたび泥棒に見舞われたという。今日では、茶屋場の跡を正確に知る由もないが、茶屋坂には、昔から綺麗な清水がコンコンと湧いて樹木が茂っていたのだ。
 八代将軍吉宗は、祐天寺詣での折にもこの「茶屋の清水」を利用したと伝えられている。


茶屋坂の清水の碑

 明治に入って山手線が通ると、目黒、恵比寿の中間ほどに位置する茶屋坂一帯は、工場立地の条件が揃い海軍の火薬製造所が建設された。同工場は、あたりに住宅が建ち始める昭和の初めに移転したが、その後も海軍技術研究所などの施設が入った。
 長い間、身分の垣根を越えて皆に愛され親しまれた「茶屋坂の清水」も、昭和8年、分譲地の造成工事のため、埋没の危機にさらされた。この時、この清水を惜しんだ、分譲地の一画にあった水交園の管理人夫妻が、清水の保護に努力されて「茶屋坂の清水」は守られ、次の世代へと受け継がれてきたのである。その後、この清水は東京大空襲の際には、消防用水、炊事用として付近の人びとの命を救ったのである。この碑は、戦後に「茶屋坂の清水」の由来を長く後世に伝えるため、この清水の恩恵を受けた人々によってこの碑が建てられた。

 やがて、今日のマンション時代を迎えることになるが、そうなると、このあたりは高台で展望がきくうえ目黒というイメージがマンションにぴったり合って、高層建物が建ち並ぶようになり、街の景観が変わてしまった。
 昔から湧いていた清水も、マンション建設のつち音が響き始めると水脈が変わってしまった。
 残念ながら現在は、その清水も渇き、この碑だけが唯一、当時を語っているのである。目黒区では、この碑の中に流れる人々の心を受け継ぐ意味から、茶屋坂の坂下にある目黒区立茶屋坂街かど公園公園に碑は移設された。


目黒のさんま祭り

 この「爺々が茶屋」から創作された有名な落語がある。
 「目黒のさんま」である。

 遊猟の帰り道、いつものごとく茶屋に寄ったお殿様は、空腹を感じて彦四郎に「何か食べるものは無いか」とねだった。だが、草深い郊外の茶屋に、将軍の口にあうものがあるはずもない。その旨を申しあげたのだが「何でもよいから早く出してくれ」とのことだった。
 彦四郎はやむを得ず、ありあわせの「さんま」を焼いて差し上げたのだ。
 将軍の口に、脂ののったさんまの味は、格別だったのだろう。
 大変ご満悦の様子で帰ったという。

 それから時が経ち、殿中でお殿様は、ふと、さんまの美味であったことを思い出したのだ。
 そして家来にさんまを焼くように命じたのである。
 さっそく房州の網元から早船飛脚でさんまを取り寄せた。
 当時さんまは、庶民の食べ物とされていたので、家来は前例がないさんまの料理法に大変困り果てた。
 気をきかせた御膳奉行は、さんまの頭を取り、小骨も取り、そして脂の多いさんまの脂肪をすっかり抜いて差し出したのである。
 美しい姿も壊され、味も素っ気もないさんまにお殿様は首をかしげた。
 「これを何と申す」
 「はっ、さんまにございます」
 「なに、さんまとな。して何処で捕れたものじゃ」
 「はっ、銚子沖にございます」
 「なに銚子とな。銚子はいかん、銚子は。さんまは目黒に限る。」

 以上、落語「目黒のさんま」である。


 目黒には三田用水が流れていた。
 三田用水は寛文4(1664)年、飲用の上水として作られ、玉川上水から北沢で分水し、三田村を通り白金、芝へ流れていた。
 享保7(1722)年この上水が廃止となった時、目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て、享保10年に三田用水となった。
 農耕、製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工業用水やビール工場の用水などに用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の幕を閉じた。
 茶屋坂隧道は、昭和5年に新茶屋通りを開通させるため、三田用水の下を開削して出来た全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。

 茶屋坂は、昔はたいへん寂しいところだったらしく明治維新で世情が混乱のころには、茶屋場はたびたび泥棒に見舞われ、島村家は、ついに坂下の村の方に移ってくることになったという。今日では、茶屋場の跡を正確に知る由もないが、茶屋坂には、昔からきれいな清水がコンコンと湧いて樹木が茂っていた。
 明治に入り山手線が通ると、目黒と恵比寿の中間ほどに位置する茶屋坂一帯は、工場立地の条件がそろい、海軍の火薬製造所が建設された。同工場は、あたりに住宅が建ち始める昭和の初めに移転したが、その後も海軍技術研究所などの施設が入った。

 この新茶屋通り沿いに「防衛装備庁 艦艇装備研究所」があるが、実はこの施設の中には三田用水の痕跡があり、そして三田用水のその当時の水そのものが残っているという場所が存在するのだ。


防衛装備庁 艦艇装備研究所

 この艦艇装備研究所は自衛隊の艦船の研究所で、あの戦艦大和の模型実験がされた場所である。この場所に旧三田用水の水路橋跡が残されている。また施設の大水槽には、実験の条件を一定に保つために入れ替えがほとんどされていない水が入っていて、昔の三田用水の水を含んだ状態で水槽が満たされているのである。


三田用水の水道橋跡


三田用水の水が残る艦艇装備研究所の大水槽


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