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ザ・戊辰研マガジン

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戊辰戦いの墓碑(大玉村)

2022年05月05日 12:32 by norippe


 江戸時代、二本松藩が成立すると、この地区の九ヵ村(玉井・下大江・大江新田・上大江・椚山・箕輪・原瀬・永田・深堀小屋)からなる玉井組が編成された。安達太良山麓部の山林資源と平坦部の水田稲作が主な生業の村であった。

 明治に入り廃藩置県が行われ中央集権化が進められるなかで、二本松藩が解体されたのち、地方行政機構はめまぐるしく変化した。このなかで本宮を中心に旧玉井組、旧本宮組、旧糠沢組の主として南達地方からなる福島県第9区会所が明治7年に設けられ、翌年には第6区会所に再編、明治12年の郡町村制にともない安達郡役所が設置、本村地域では玉井・大江・椚山の3村に戸長役場ができた。そして明治22年の市町村制施行により、大江村と椚山村が合併、旧玉井村と旧大山村が誕生した。
 この2村の体制は、アジア・太平洋戦争後まで続いたが、昭和28年の「町村合併促進法」により、昭和30年に2村が合併し、今日の大玉村が誕生したのである。

 玉井村(大玉村)は戊辰戦争の折、会津へ至る裏街道を持つ村として、官軍・幕府双方から戦略的に注目されていた村である。官軍が奥州街道から会津へ攻め入るためには二つの道があり、一つは玉井から、石莚経由、二つには本宮・郡山から会津街道経由、中山峠越えの街道であるが、中山峠越えは、自然の要害に阻まれる上、かなりの犠牲を覚悟せねばならず、そこで玉井からの街道が選ばれた。
 当時、二本松領内であった玉井村と会津領の石莚村の境界近くには、東軍連合(幕府伝習二大隊、会津二小隊、二本松二小隊、仙台二小隊)が防備を固めるため、五百から千人近く出兵してきており、官軍との防衛の最大決戦場として、母成峠を選び、陣地を構築していったのである。



 戦死31人墓は、戊辰戦争時の慶応4年(1868)8月20日の玉井村山入、(現在の大玉村玉井字瀬戸原付近)の戦いで、西軍を迎え撃った東軍戦死者の墓である。これらの戦死者は、地元住民により玉井権現目墓地に手厚く葬られた。





 31人墓の横には二本松少年隊2名、官軍4名の名前と年齢が刻まれた墓がそれぞれ建っている。平成3年には玉井史談会によって、31人の名を刻んだ碑が立てられた。





 この権現目墓地は、村道竹ノ内南小屋線の道路沿いにある。雑木林の中にあるので、夏に行く際は、やぶ蚊に刺されないように注意が必要である。


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