バックナンバー(もっと見る)

2022年04月号 vol.54

會津鶴ヶ城内には、約1000本の桜が花をつける会津随一の花見の名所で日本桜...

2022年03月号 vol.53

3月3日は女の子の節旬「ひな祭り」でした。ひな人形を飾り、白酒、ひし餅、ハ...

ザ・戊辰研マガジン

2022年05月号 vol.55

【新真実】松平容保の御宸翰 明治天皇提出は秋月悌次朗の人脈だった

2022年05月06日 20:54 by tetsuo-kanome

【孝明天皇と会津藩主松平容保】 

【孝明天皇から松平容保公へ下賜されました御宸翰】

 2019年11月17日に会津若松市のワシントンホテルで公開シンポジウム~戊辰戦争150年を超えて『会津の義-孝明天皇の御宸翰から』が開催されました。幕末の会津藩主松平容保が、孝明天皇からの直筆の書「御宸翰」を明治天皇に提出したとする研究成果を基に、会津の義を考えました。我らが生前の星亮一先生もコーディネーター役で参加されました。戊辰戦争研究会からもたくさんの方々が出席されましたこのシンポジウムの中で、宮内庁の白石さんは、明治22年に明治天皇へ松平容保公が御宸翰4件を提出したことが明らかになった事実を披露してくださりました。御宸翰を持参する際に旧会津藩士の秋月悌次郎が同行した点なども明かしました。秋月ら戊辰戦争を経験した「明治維新の第一世代」の会津は不明な点が依然あり、「明治の会津を知る上で第一世代の分析と研究が必要だ」と語りました。

【公開シンポジウム『会津の義~孝明天皇の御宸翰から』(2019年11月17日開催)】

【生前の星亮一先生】

【出席されました戊辰戦争研究会の皆様】

 

 その後、宮内庁の白石氏は、調査を続け、福島県史学会編「福島史学研究」第100号(2022年3月発行)に論文『孝明天皇宸翰と会津松平家~明治天皇への奉呈前後の背景』と題して発表されました。

 私は、「福島史学研究」の白石氏の21ページの論文がどうしても拝読したくて、「福島県史学会」に問い合わせをして、手に入れることができました。

【福島史学研究第100号】

 この論文の中で、特筆すべきことは、明治天皇への宸翰提出は、旧会津藩士の秋月悌次郎の人脈が重要な役割を果たしていたことが判明しました。特に鍵になったのが明治期に島津家の歴史の編纂を担当していた“旧友”の市来四郎(いちきしろう)とそのおいの寺師崇徳ら旧薩摩藩士でありました。市来四郎が側近として仕えた島津久光も孝明天皇から宸翰を下賜されるなど厚い信頼を得ていた。しかし、明治以降は新政府の近代化政策についていけず、失意のまま政府要職から離れておりました。その無念の思いを晴らすためにも、孝明天皇の宸翰を明治天皇に提出し、かつ孝明天皇を中心とした明治維新史を編纂を行うよう市来四郎や家臣に言い残していたのであります。この遺志を受けて島津家は、明治21年6月14日に島津久光宛の孝明天皇の宸翰を明治天皇に提出しました。これが会津松平家にとりましても大きな契機となりました。島津久光への宸翰には、三条実美ら急進公家に対する批判が多く書かれていたのが、明治天皇は父親の真意が記された宸翰に強い関心を示し、他にも孝明天皇の宸4翰がないか調査するよう宮内庁の側近に命じたのでありました。

【宮内庁と旧会津藩士との交渉経過】

【市来四郎(旧薩摩藩士)】

 一方、秋月悌次朗が関係を持っていた市来四郎や寺師宗徳は、旧薩摩藩士でありながら、明治維新の勝者と敗者を区別しない歴史観を持っていました。そのため、彼らは明治維新の敗者側の史料の収集が必要であることを理解していました。その際に注目したのが、会津松平家に所蔵されている孝明天皇の宸翰でした。市来四郎は宮内庁に対して、全ての旧大名家から明治維新関係史料の提出を求めました。それには会津松平家の孝明天皇宸翰が提出される必要があると考えていました。そしてこのことを秋月悌次朗に提案し、明治21年9月6日に秋月同席のもとに、松平容保と寺師宗徳の直接対面が実現しました。その際に、松平容保は「島津家が先に孝明天皇の宸翰を明治天皇に提出したことにより、自分も遠慮する必要がなくなり、宸翰を明治天皇に提出する決心をした」と表明しております。こうした流れで松平容保と秋月悌次朗は、宸翰の提出が実現できるよう寺師宗徳に依頼し、寺師は宮内庁関係者に粘り強く懇願を重ねました。秋月に協力してくれた中には、幕末期の京都で秋月悌次郎と協力関係を築いた旧薩摩藩士の高崎正風もおりました。つまり、宸翰提出の背景には、水面下における会津と薩摩の協力が存在しておりました。一番驚くべき真実は、松平容保公宛の孝明天皇宸翰は、全部で4件6通と判明しました。

【高崎正風(旧薩摩藩士)】

 このことは、明治新政府に不満を持っていた島津家の一部(島津久光の側近)と、明治期初期から一貫して名誉回復を願ってきた会津松平家が、自分たちの目的を達成するために交錯した瞬間があったことを示していると言えると思われます。そして、その会津側の窓口が秋月悌次郎でありました。宮内庁の白石氏は、今後、秋月悌次郎の存在に改めて注目しつつ、明治期の会津松平家の動向を分析していくそうです。

【福島史学研究第100号の一部】

【宮内庁書陵部編修課主任研究官 白石烈氏(福島県いわき市出身)】

【秋月悌次朗】

 【福島民報新聞掲載記事】

 いやぁ、素晴らしい真実が明らかになりました。しかも、私が尊敬する秋月悌次朗がキーパーソンだったとは嬉しくなりました。しかも、これからも宮内庁の白石氏が宮内庁に所蔵されている史料から、秋月悌次郎の動向を追求されるとのこと、もっとすごい真実が世間に明らかになることを祈っております。

【記者 鹿目 哲生】

読者コメント

コメントはまだありません。記者に感想や質問を送ってみましょう。

バックナンバー(もっと見る)

2022年04月号 vol.54

會津鶴ヶ城内には、約1000本の桜が花をつける会津随一の花見の名所で日本桜...

2022年03月号 vol.53

3月3日は女の子の節旬「ひな祭り」でした。ひな人形を飾り、白酒、ひし餅、ハ...