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ザ・戊辰研マガジン

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会津小鉄

2021年08月06日 21:03 by norippe

 「オイチョカブ」という花札の遊びがある。そのオイチョカブでは花札の合計が10や20になると「ブタ」といって勝負にならない。8+9+3は20で勝負にならず、8,9,3をヤ、ク、ザ、といい、勝負にならないクズもので、何の役にも立たない、自分たちはヤクザというようになったのがヤクザの発祥だという説がある。
 暴力団とは、人を脅したり暴力をふるったりする団体をいい、ヤクザ=暴力団ではない。
 任侠という言葉があるが、義を重んじ、困っている人や苦しんでいる人を助けるために動く人のことをいうが、ヤクザがこれを自分で言うことがあるが、多くは暴力で相手を黙らせるいわば犯罪行為となるのが実態である。

 任侠に生きる者。この発生の源を尋ねると室町時代にさかのぼり、上方(かみがた)地方に異装をした遊侠無頼の徒が出現していた。「かぶき者」といわれ、人目に触れる風俗、行為を好み、常軌を外れた行動と伊達(だて)者たることを誇りとした。徳川封建時代になると、禄(ろく)を離れた多数の浪人ができた。その社会の内蔵する矛盾に対し、体制に反抗する姿勢の者が多くなり、「強きをくじき弱きを助ける」とか「一諾千金より重し」として義侠、遊侠の行為をする者が増えたが、これらを総称して侠客という。義侠心は人間だれにも大なり小なり存在する感情で、時と場合によっては自分を捨てても他人を助けたいとするものであって、義侠に生きる者こそが本当の侠客であるが、遊侠に暮らす連中は似て非なるものである。しかし一般にはこの概念が混在して使用され、江戸初期に発生した旗本奴(やっこ)、それに対抗して出現してきた町奴をみても、一面に侠的行為があってもその反面には正義の軌道をそれて狼藉(ろうぜき)に及ぶ無頼の徒でもあった。旗本奴の首領水野十郎左衛門が1664年(寛文4)切腹させられてから両者の横行は終息し、それ以後「人入れ」なる職業など親分たるにはどうしても自覚心のある侠客肌の者であることが必須要件で、この種の親分はたいてい侠客とよばれた。博徒をも侠客という呼び方をしているが、侠客なる語には道徳的意義があるに反し、博徒は全然異質な遊民であり、侠気と暴力が乱暴狼藉に走る無法者であって真の侠客とはいえない。(日本大百科全書より)

 幕末の動乱時期に侠客と言われる男がいた。戊辰戦争の始まりである鳥羽・伏見の戦いで、多くの会津藩に犠牲者がでた。戦死した会津藩士の遺体は誰に弔われることなくしぱらくの間、草木に埋もれていたのだが、中心となって埋葬に奔走した男がひとり、会津小鉄の異名で知られる侠客である。詳しい出自は不明だが、大阪の生まれとされる。京都の守護を幕府から託された会津藩に雑務役として仕えた。新選組への協力も惜しまなかった。局長の近藤勇が処刑された際は、江戸から運ばれ京都の河原にさらされていた首を配下に持たせひそかに会津へ届けさせたとの逸話も残る。



 京都市左京区黒谷の金戒光明寺にある会津墓地には会津藩士三百五十二柱が眠る。会津小鉄の墓は、西隣の西雲院内にある。墓碑の脇に藩への忠誠を伝える札が立つ。
「会津藩主松平容保侯、京都守護職として、千兵を率いて当黒谷に本陣を置くや、其の知遇を受け、若年にして元締めとなる。(中略)戦死者の遺体は朝敵の汚名のもと世人は後難を恐れ、戦場の雨露に晒され無残にも放置されたるを配下を動員し死を決して探索、 収容、埋葬する」
 そして、会津小鉄の藩への思いは死後も受け継がれた。
 会津墓地では毎年六月に法要が営まれる。そのニ週間ほど前には人知れず墓地と周辺が掃き清められていた。会津小鉄とつながりのある関係者による奉仕活動が一九八五(昭和六十)年ごろまで続いていたという。「幕末から百年以上経ってもなお、会津藩への忠義を代々関係者に抱き続けさせた会津小鉄の思いはいかに強かったか」

 会津小鉄の配下が近藤の首とともに会津に運んだと伝わる近藤勇の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」」の鞘(さや)には「若松市長 松江豊寿」名で刀の出自力が記され、第九代市長だった松江が入手したとされる経緯などがしたためられている。命を賭して異郷の地を守ろうとした会津藩士、決死の覚悟で藩士を支えた会津小鉄。立場を超えて通じ合う義の心は、今なお多くの人の心を引きつける。京都における会津藩の活動を語る上で会津小鉄は欠かせない。





本名は上坂仙吉(こうさか・せんきち)
金戒光明寺などによると、1833(天保4)年の牛まれ。
背中に「会津」と入ったはんてんを愛用していたため会津小鉄の異名が付いた。

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