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ザ・戊辰研マガジン

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【幕末維新折々の記・二十】明治の教育

2021年08月06日 21:09 by tange

 明治5年(1872)8月、政府は学制を公布する。全国を八大学区に分け、その下に中学区、さらに下に小学区を制定し、それぞれに大学、中学、小学校を設けることを計った。その結果、8年(1875)までに全国で24,303校の小学校が誕生した。その数は、人口が3.5倍に増えた現在の小学校数26,000と照らして、圧倒的に多かったことが分かる。明治政府は、国家戦略として、国民皆学を推し進めたのだ。
 制定された八大学区とは、北海道、東北、北陸、関東、中部、近畿+南四国、中国+北四国、九州だった。7年(1874)7月に政府から発表された「各大学区全図(国立公文書館所蔵)」に明示されている。

 政府は当初、八大学区に各々一校、帝国大学を設立しようとした。明治の終わりまでに、東京、東北、京都、九州帝国大学の四大学が発足する。そして大正に入り、東北帝大の分校から昇格して北海道帝大が開学した。しかし、残り三大学の成立は難航する。
 例えば、第六大学区の本部となった新潟には新潟帝大が開設される予定だったが、金沢に強力なライバルがいた。他に、広島帝大の誕生も大学区内の確執で不調に終わった。そのような地方での足の引っ張り合いを見た政府は、明治の末までに八大学区制度の実現をあきらめた。 昭和に入り大阪帝大、名古屋帝大が開設され、最終的に北陸、中国、四国地方には帝国大学が置かれなかった。明治から昭和初頭までに開学した帝国大学は、終戦後、改組され一般の国立大学として再出発するが、今でも「旧七帝大」と呼ばれている。

 大学区本部が置かれた新潟には、明治初頭から高等教育への厚い熱意が醸成されていた。12歳で会津戊辰戦争に遭遇した私の曽祖父・鈴木久孝は、9年(1876)、新潟英語学校に入学する。安政5年(1858)の日米修好通商条約により開港五港の一つとなった新潟では外国語への関心が高まり、明治の初めには英語学校開設の萌芽があったという。新潟英語学校は、このような背景のもと、我が国初の英語学校として7年(1874)に開校した。
 そこを卒業した曽祖父は、12年(1879)、新潟県の奨学金を得て東京商法講習所(現、一橋大学)で学び始める。東京商法講習所は、後に文部大臣を務める薩摩出身の森有礼らによって、8年(1875)に創設された我が国で初めての商業学校であった。
 勉学を終えた曽祖父は、明治近代化の大波に翻弄されながら貿易、海運、鉄道会社などで職を得るが、次第に健康を損なっていく。そして24年(1891)に滋賀県商業学校の教諭となる。同校は、19年(1886)に近江商人発祥の地である大津町(現、大津市)に開校し、34年(1901)に近江八幡へ移転する。現在、滋賀県立八幡商業高等学校として存続している。
曽祖父の人生を振り返るだけでも、政府による学制の公布以降、明治の時代に多彩な教育制度が生まれていたことが分かる。

 曽祖父・鈴木久孝は、24年4月に滋賀県商業学校に着任するが、同年8月に依願退職し、その翌月、大津町で病のため世を去る。たった四ヶ月の勤務だった。
 私は、平成最後の4月、曽祖父の就労を確かめようと近江八幡市を訪ねた。
 近江八幡は、この地を治めた豊臣秀次によって縄張りされた八幡山城を中心として広がる城下町である。琵琶湖の水が引き込まれた八幡堀が今に残り、美しい水郷の景色を見せている。また、38年(1905)に米国から商業学校の英語教師に着任したメレル・ヴォ―リスが、建築家として出発した地でもある。市内には彼が設計した14棟の近代西洋建築が点在する。
 ヴォ―リスの作品の一つである八幡商業高校本館で、校長先生が褐色になった職員名簿から曽祖父の名を探し当てた。しかし、そこには「鈴木久高」と記されていて、残念ながら一文字違っていた。曽祖父の就労は確定出来なかったが、心から感謝の気持ちを述べ、そこを辞した。
 それからひと月ほど経ったある日、その校長先生から電話をいただいた。
「学内外を調査しましたところ、同窓会の長老が保管していた明治時代の会員名簿に、教諭『鈴木久孝』が記されています。間違いなくご先祖のお名前です」と伝えられた。初対面にもかかわらず大変親切に応えていただいたことに、私は驚くとともに深く感動した。
 さらに、130年ほども前にたった四ヶ月だけ在職した者の氏名が確かに残されていること、それこそが「明治の教育」の真髄だったに違いないと確信した。 
(鈴木 晋)


近江八幡市・春の八幡堀

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