元来が激派嫌いな孝明帝にとって、更なる追い打ちとなる、三条実美らが長州藩の武力 を背景に半ば恫喝的に「大和行幸」「攘夷親政」の詔勅宣布を乞うに至って怒りが頂点に 達したとあります。
「十津川草莽記」によると、この詔勅は、天皇が攘夷祈願のために大和へ行幸し神武天皇 陵と春日社に参拝、軍議を開いて御親政の軍を編成し伊勢神宮へ鳳輦を進める、という 内容で、在京各藩に供奉を命じていた。 供奉の藩兵は、軍議で御親政が決まれば、即時御親兵に切り替えられ討幕に向けられる。 そんな魂胆を察した孝明帝が、中川宮に憂慮している宸翰を下した。 そこで、中川宮は、激派の一掃を決意、薩摩、会津両藩に手を回し、一カ月近く極秘に 準備を整えた上、八月十八日の未明、一気にク-デタ-を敢行したと書かれています。 筋書きは薩摩藩が書いたといわれるが、まず十七日の深夜、激派の公卿が全員退出した 隙を狙って中川宮が参内、帝に拝謁して大要三点からなる勅命を受けた。
その内容は、 一、大和行幸とりやめ。 二、三条実美以下の議奏、参政の公卿十九名に禁足申し渡し。 三、長州藩の堺町御門警衛の任を解き、薩摩、会津両藩に替える。 というものでした。
未明の間の、然も疾風迅雷の処置により、寝首を掻かれた公卿たちは、夜が明けてそれ を知った時には、御所の九門は薩会両藩の兵で厳重に固められ、出入りも出来ない。 やきもきしている間に、朝廷内の改革はどんどん進み、要職はすべて公武合体、穏健派に よって占められてしまいます。 堺町御門を警衛していた長州藩兵も、勅命を盾に退出を迫る薩・会両藩の大兵に圧倒され 、全員藩邸に退き、廟堂は完全に中川宮ら穏健派の握るところとなりました。
そして、昼前になって、禁足を申し渡された十九名のうち若手の七人(三条実美、 、東久世通禧、壬生基修、錦小路頼徳、沢宣嘉、四条隆謌、三条西季知)は、禁を犯して 鷹司関白邸に集合、対策を協議が、勅勘は動かし難いほど強いと分かったので、国元へ 退去する長州藩兵とともに、一時長州へ落ちることに決まりました。 ※当時の七卿の年齢について、私はよく知らなかったので、調べてみましたところ、七卿 の一人、東久世通禧を曾祖父の持つ末裔の方のブログにヒットしました。
その方の記事によりますと、曾祖父の通禧卿が29歳、三条実美26歳、沢宣嘉27歳、 錦小路頼徳28歳、壬生基修28歳、四条隆謌35歳、三条西季知52歳とあり、三条西 季知以外は20~30代と、尊攘派志士たちと同様、若者たちなのです。 そして、こうも仰っておられます! よく、幕末ものドラマや映画で描かれる、年齢不詳のナヨナヨとした公卿たちではありま せん。確かに鉄漿(おはぐろ)はしていたが「麿は・・おじゃる」とか「おほっほつほ」 と薄気味悪い声で笑う公家のイメ-ジとは、全く違います!彼らは回天の理想に燃え、 自らの意思で運命を切り開く若き志士たちであったのだと・・・私もそう思います。 次号に続く
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