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ザ・戊辰研マガジン

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仏が着いた仏浜

2021年08月06日 21:00 by norippe



富岡町小浜の仏浜

 福島県浜通りの富岡海岸に仏浜という地名の所があり、そこに次のような伝説がある。
 仏浜は古来「帆解浜」と言い、千三百年前の奈良時代頃には、北へ向かう朝廷の役人が都から海路はるばるここまで来てこの浜に上陸し、ここで「帆を解いて」陸奥の奥地へと出発した地点だった事からの地名とされる。また、寿永元年(1182)のある時化の日に、当時富浜と言ったこの浜に一艘の空船が漂着した。中ノ島の長作という人が、これを見つけ浜辺へ引き揚げたところ、船底で人の声がする。 怪しんで船内を探したところ、一体の仏像を持った一人の僧がいた。僧は、飛弾国の慶仁と言い、訳あって流人となりここに漂着したのだと言った。これを聞いた長作は、自分の菩提寺の浄性寺(廃寺)に伴いそこに住まわせ、薬師仏の仏像は中ノ島の瑠璃殿に安置したと言う。これより富浜を仏浜と呼ぶようになったと伝えられ、慶仁は一意法師だと伝えられる。
 今から百四十年ほど前の元治元年(1864)旧九月十四日の昼下がり、仏浜海岸にザンギリ頭の髪を乱した異様な姿をした若い武士たちが漂着した。四本松豊之助・西恭助・西善蔵・森嘉兵衛・大越才四郎・渡辺市治・赤松貞助(矢島藩)・新宮半治郎(薩摩藩)の八名である。彼らは、筑波の挙兵に参加した相馬中村脱藩の士六名と他藩士二名のいわゆる水戸天狗党の一員であった。
 三日前の九月十一日の夜、相馬中村脱藩士十一名と他藩士三名(薩摩藩士・出羽矢島藩士・出羽久保田藩士)の十四名が、湊(茨城県那珂湊)から三艘の小舟に乗り北行した。生憎の暴風雨のため櫓は折られ、小舟は沈没の危機にあったが、その危難を逃れ三名は行方郡小浜(原町市)に上陸。さらに元久保田藩士を含む三名は、久ノ浜海岸に上陸しそれぞれ各地に逃れた。残る八名が楢葉郡仏浜海岸(富岡町仏浜)に漂着し、上陸後、熊川村の松永巳代治氏宅に着く。
 天狗党に対する様々な流言庇護が飛び交う中、相馬中村藩は藩境に厳戒態勢を敷いた。給人、郷士、足軽に、鉄砲・槍・竹棒などを持参、捕縛は手錠及び縄を使用するなどの手配のうえ、九月二十日、八人は捕縛された。そのうちの一人渡辺市治は、捕縛後、隠し持っていた短刀で自分の喉を突き刺し自刃を図る。即死にはいたらなかったが、地元の婦人に介抱されるものの苦しみのうち六日後に絶命したと言う。その様子について、当時見ていた者の生々しい証言記述が『大熊町史』に掲載されている。その他、元薩摩藩士新宮半治郎(本名松脇後左衛門)、元矢島藩士赤坂貞助(本名土田衡平)を含む七名は、中村城下に送られ宇多川の獄舎に入れられた。金蔵院慈隆の意見により(金蔵院で学んだ子弟もいた)、助命する考えもあったそうであるが、十一月五日夜、武士の最後として切腹を望んでいたものの、幕府の圧力もあり一般罪人扱いで斬首刑にされている。
 墓は相馬市の洞雲寺と円応寺、蒼竜寺に分かれて葬られ、後に、維新殉難者の志士として靖国神社に合肥された。渡辺市治の墓石は、高さ約六十五センチ)、幅二十二センチ、厚さ十四・五センチの自然石で作られ、「元治元年甲子天 自悟劔光信士位 十月初四日」と刻まれ、熊川の遍照寺本堂裏にひっそりとある。熱き志を持って果敢に行動した青年たちが、この地にもいたという事を今はほとんど忘れ去られている。
(参考文献:浜通り伝説へめぐり紀行)


東日本大震災後の仏浜(ロウソク岩が無くなっている)

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