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ザ・戊辰研マガジン

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【幕末維新折々の記・十五】柴五郎、終焉の地

2021年03月06日 11:51 by tange

 近代日本を愚直に走り抜けた会津出身で陸軍大将、柴五郎の終焉の地を探していた。
 
 柴五郎は、明治45年(1912)、東京郊外の玉川村上野毛に自邸を構える。その邸宅は、南に多摩川を望み、河岸段丘を背にした5,000坪の敷地に新築された。屋敷内には、河沿いの低地に向かって緑豊かな庭が広がり、一部に武蔵野の雑木林が残され、さらに北側の崖を上がると、はるか彼方まで眺望が開けていた。
 参謀本部付少将だった柴は、この7月30日、天皇崩御の報を移住直後の自邸で受ける。大陸での務めを終えて帰京後、病気休暇で二カ月静養していた時だった。
 (村上兵衛『守城の人』)
 33年(1900)4月、柴五郎中佐は北京の公使館に駐在武官として着任する。
 日本公使館は、欧米十カ国の公使館が集まり、高い塀に囲まれ城郭の様になった区域の一画に在った。彼の着任直後の6月、義和団の乱が勃発する。それから始まる北京籠城の55日で、コロネル・シバの指揮によって規律正しくかつ勇敢に戦う日本将兵は、各国公使館とそこに居た多数の婦女子を守った。
 (当誌2017年10月創刊号・拙稿『柴五郎と鈴木光子』)
 柴の名声は世界中に広まり、戊辰戦争で逆賊とされた会津藩の出身者は、天皇への拝謁が許され、親しく御言葉を掛けられる。それは誠に恐れ多いことで、彼は深く感じ入る。
 屋敷内に三か所の「聖所」が造られた。皇室のいやさかと祖国の隆昌を祈念した皇太神祠、日露戦争で戦死した部下たちの忠魂碑、そして柴家の先祖代々を祀る祠である。さらに崖の上には、遥拝所が設けられた。
 柴は毎朝、雨の日も風の日も、三か所の「聖所」を巡って祈り、遥拝所で北東の方向に位置する宮城を拝した。それは86歳で逝去する昭和20年(1945)12月まで続けられた。
 (村上兵衛『守城の人』)

 玉川村上野毛は現在、世田谷区上野毛一から四丁目となっている。柴邸は、上述したように多摩川を南に望める場所だったので、当てはまる二丁目を重点的に調べることにした。
 「野毛」とは崖という意味だ。該当地域には、国分寺崖線が走っている。これで崖の上に遥拝所を設けたことに説明がつく。さらに、その敷地5,000坪(約17,000㎡)は広大である。
 私は、崖と5,000坪を手掛かりとして昭和40年代の住居地図上に柴邸の跡を探し、上野毛二丁目の東急自動車学校が当該地と推測した。その地は現在、学校が他に移り、区立二子玉川公園の一部となっている。

 東急大井町線上野毛駅から環状八号線を渡り、上野毛通りを下って多摩川を目指した。途中、急峻な稲荷坂の東側に緑の濃い公園を見て、細い川を渡り、先へと進んだ。その時の私は、それら公園と川が柴邸を探す重要なヒントであることを知る由も無く、ただ通り過ぎた。
 二子玉川公園は、多摩川沿いに広がる広大な公園で、平成25年(2013)に開園している。大河の流れを南にしているので、たっぷりの日射しに恵まれ、見晴らしも良い。その日、雪を頂いた富士山がはっきりと見えていた。
 しかし、肝心の自動車学校の位置が特定できず、公園のビジターセンターで聞き取りをした。そこで世田谷区立郷土資料館の存在を教えられ、一気に柴五郎終焉の地に近づくのだ。

 東急世田谷線上町駅近くの郷土資料館は、昭和39年(1964)、彦根藩領の大場代官屋敷だった地に開館した。そこの学芸員Kさんから、重要な情報が提供された。
 まず、昭和9年に区勢調査会が発行した世田谷区勢總攬が示され、そこに区内に住む著名人の一人として柴五郎が紹介されていた。記された住所は「上野毛町116」である。
 次に、昭和16年に作成された上野毛地区の図面を閲覧できた。それに「柴五郎、1,079坪」の書き込みがあった。その地は、国分寺崖線と丸子川(六郷用水路)に挟まれ、真言宗覚願寺の東の方に位置していた。東急自動車学校を柴邸の跡とする私の推測は、全くの間違だった。
 敷地面積5,000坪が1,079坪になった理由は分からないが、この世を去るまで遥拝所に立つことを日課としていた彼の屋敷地は、崖上まで続いていたはずだ。
 Kさんに深い感謝の気持ちを伝え、再び上野毛へ向かった。

 丸子川は最初の時に渡った細い川だ。やはり通り過ぎた公園は、崖上の覚願寺から丸子川まで広がる区立上野毛自然公園だった。
 川沿いを東の方へ歩いた上野毛二丁目19番辺りが、かつての柴五郎の屋敷地と考えられた。しかし19番地には、川から崖上まで続く一帯の土地が残されていない。いずれも細かく分割された宅地ばかりで、柴邸の跡を特定するものは何も見つからなかった。
 ただ、名主だった田中家の屋敷地跡である上野毛自然公園が、当時の様子を今に伝えていることに気がついた。その公園は、柴の屋敷の二倍半ほどの広さで、急峻な崖の上から低地までサクラやカエデと他に武蔵野の雑木でおおわれ、湧水池や水の流れなど多摩川沿いの様子を良く再現している。
 周辺を巡り、崖の上に立った。家と家との狭間から多摩川の方を望むと、沈む陽が強く差して前方の細々とした景色を消し、大河と一体になった光の海が現れた。この美しい景色を、柴五郎も見ていたに違いない。



多摩川の堤より上野毛二丁目辺りを望む


 柴五郎の屋敷跡を特定するには至らなかったが、その辺りと推測される崖に突き刺さるように在る建築を見つけた。建築家・宮脇檀氏が設計した住宅「ブルーボックス」である。初めて実物に接し、その迫力に圧倒された。それは、120年前、世界を刮目させた日本人の終焉の地に相応しいデザインと、私は勝手に決めつけていた。
(鈴木 晋)


崖に突き刺さる住宅「ブルーボックス」


次号、「女子遣米留学生、捨松と梅子」



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