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2021年03月号 vol.41

十津川郷士、5 (青蓮院宮)大和の歴史

2021年02月24日 15:39 by tama1
2021年02月24日 15:39 by tama1

 彼の有名な「安政の大獄」については、今更語るべくもないほどよく知られているところ ですが、「十津川草莽記」には、面白いことが書かれています。

 大老井伊直弼による大弾圧が、史上まれにみる陰残な臭みを放つのは、この直弼や長野主膳の性格によるところが大きいと書かれている点なのです。

 直弼も主膳も、自己の主観で組み立てた予断に基づいて行動した。その予断というのは、 一言でいえば、水戸の斉昭が将軍家乗っ取りの陰謀を企てているというものでした。

 斉昭はその野望実現のために、実子の一橋慶喜を将軍につかせるよう策謀し、孝明帝の 信任篤い青蓮院宮と松平春嶽を抱き込み、成功の暁には青蓮院宮を次の天皇に、春嶽を 次の執権職につかせる旨、密約したというものです。

 これは、あくまでも二人の勝手な思い込みであり、事実ではないのですが、直弼も主膳も これを事実として確信して、尊攘志士や公卿侍らを捕縛し、筋書きに沿うよう自白を強制 しています。 当然ですが、いくら被疑者を追及しても、直弼や主膳が期待するような斉昭謀反の傍証は 出てこなく、言語に絶する拷問を加えても一向に効果がなかったのでした。

 それでも、直弼と主膳は執拗に容疑者の対象を広め、次から次へと捕縛し、拷問を続けた といい、記録によると、この事件で断罪されたものは、宮、堂上家とその家臣が二十人、 幕臣九人、諸藩士二十人、儒者三人、神職二人、僧侶二人、農商人十三人、その他 監禁中に自殺、病没したものなど十人、計七十九人に上り、まさに前代未聞の特異な 弾圧だったそうです。 この安政の大獄が始まったのは、安政五年(1858)九月、終息したのが翌六年の十二月 でした。事件は先ず、京で活動する尊攘派志士の逮捕から始まり、その第一号が、ほか でもない梅田雲浜その人でした。

 夏以来、何の音沙汰もなく業を煮やした上平主税が、十津川から様子をみに出てきて、 雲浜宅を訪ねたのは、ちょうどその直後でした。雲浜の妻千代は、大和高田の素封家 村島内蔵進(くらのしん)の娘で、主税とは同郷で旧知の仲だったから、捕吏襲来の模様 を委細包まず話してくれました。

 それによると、物々しくひしめく捕り方に、雲浜は顔色も変えずに、従容として縛につい たといいます。雲浜愛用の品々や書付類は残らず持って行かれたが、同志の名簿や交信 録など秘密書類は内弟子の野崎民蔵や赤根武人の二人が素早く懐にねじ込み、何食わ ぬ顔で持ち出したといいます。

 雲浜逮捕後、数日のうちに、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉といった水戸藩士、鷹司家の家士 小林良典、同家の儒臣三国大学、尊攘家の頼三樹三郎、三条家の諸大夫丹波正庸らが つぎつぎに捕縛され、主税ら十津川郷士が何よりも頼みとしていた青蓮院宮は、寺で謹慎 し、執事の伊丹蔵人も捕らえられて江戸送りになるなど、いつ果てるとも知れない凄まじ い様相を見せていました。

 主税は血の気も失せる思いで、これではもう、禁裏出仕運動どころではない。と深瀬 繁理や野崎主計ら京に居た郷士とともに、難を避けて郷里に帰ることにしました。 一旦は郷里へ帰ったものの、雲浜や青蓮院宮のことが気になって仕方なかった主税は、 翌年、安政六年の春、また京へ上ります。

 上平主税が国学を学んだ寺町・丸太町の「下御霊神社」

 京へ上った主税は、情勢を探るため、国学者で神道家の出雲路大和守(いずもじやまとの かみ)定信に入門します。 出雲路大和守という人は文化九年(1812)生まれで、この時四十六歳。生家は代々、下御 霊社の祠官で、曾祖父の信正は山崎闇斎の高弟として知られた人で、大和守もその血を 受け継ぎ、流行の平田学とは距離を置いていたが、文法と有識故実の学では第一人者と 言われ、学習院にも出仕して堂上子弟に日本紀神代巻や礼典を教えていたそうです。

 主税がここを入門先に選んだのは、大和守が禁裏の人々と親しい上に、その屋敷である 下御霊社が仙洞御所の近くにあって、御所との往来が繁かつたことが理由でした。 ここに居れば、青蓮院宮や雲浜の消息が聞けるかも知れないと思ったようです。 入門したのが安政六年四月、退学して十津川へ帰ったのが同年十月だから、就学期間は 僅か半年と短かったのですが、その短い期間に主税は自己の後半生を決定づけるほどの 強烈な思想的な影響を受けたというのです。 

 大和守が説いたのは、天皇も民も神の指図のままに働き、常に神を祭ってその恵みに感謝 し、神と天皇と民がむつみあう。祭政一致の政体こそが、外国には例のない、この国固有 の誇るべき姿である。そのためにも一日も早く、中心になる天皇に古の姿に戻ってもらわ なくてはならぬ、という所謂、王政復古論でした。

 この王政復古論は平田国学ほど過激ではなかったが、主税を感奮させ、その後半生を 天皇至上主義にさせて波瀾を呼ぶことになっていきます。

 さて、安政の大獄ですが、年が明け安政六年になっても治まることなく、ますます猖獗を きわめ、二月には反幕府の公卿やその家臣が一斉に遠島、追放、所払いなどに処され、 青蓮院宮も改めて相国寺に永蟄居となり、九月には恐れていた凶報が届きました。 梅田雲浜の獄死を知るや、主税は郷の悲願が音を立てて崩れていくのを意識しています。 巷には橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰らが江戸で斬首されたとの噂を聞くにおよび、 これ以上京に居ても青蓮院宮とも接触の手段はなく、それより早く十津川に帰って今後 の善後策を相談することにします。 安政六年十月下旬、主税は出雲路大和守らに別れを告げ、京を出ています。

 十津川郷の悲願は、いつ、訪れるのでしょうか苦難の日は続きます。

          次回へ続きます。

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