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下北半島(斗南藩)を歩く(史跡編)

2019年09月06日 10:07 by date

JR八戸駅に入線するディーゼル機関車

 この夏に女房と一緒に斗南藩を歩いた、正確に言えば青森県の下北半島を歩いたということになるだろう。私の思いは明治2年に薩長らの主導する明治新政府によって3万石と言われた南部領に押し込められた斗南藩の軌跡を見ることであった。
 実は今から9年前に歴史作家の星亮一先生と戊辰戦争研究会のメンバーで下北半島を歩いたことがあった(実際は車で廻ったのだが)。その時の私は車の運転手としてハンドルを握ったためにあまり景色を見てこなかった、つまりどんな場所だったのか覚えていなかった。その借りを返すために下北半島に来たようなものである。
 ただし家族に対しての言い訳として、「温泉に行くぞ」と女房をそそのかしての下北半島の旅行となったものである。そのような弱みがあるために観光も兼ねた史跡巡行となった。

JR大湊線「下北駅」のホーム

 JR大湊線の終着駅は「大湊」であるがその一つ手前の「下北駅」で下車した。青森県むつ市の中心は「大湊」であるが下北巡行(観光)は下北駅から始まる。その理由は下北半島の観光地である大間町や津軽海峡・尻屋崎灯台に向かうには下北半島のくびれ部分の下北駅を経由するために、「大湊」に行かずに下北駅から出発するのが一番の近道なのだった。

下北駅で降りるとホームの端で迎えてくれる看板。

「よく来たにし 心温ったり 下北半島」、本州の北の端まで来てのおもてなしである。よくここまで来たと我ながら思う瞬間である。下北駅の近くには大きなホテル「むつグランドホテル」がある。ここのホテルの前を通過すると「斗南が丘」に通じることは覚えていた。「むつグランドホテル」は9年前に星亮一先生の講演会があった場所であり、下北半島における会津の人たちが会合などでよく利用するホテルでもある。

 「むつグランドホテル」の前の道路をしばらく走ると左手に公園(空地)が見えてくる、バス停があり停車スペースがあるので車は止めやすい。ここが「斗南が丘」である。
公園とあるが草地であり整地されておらず、歩くのに不便である。公園であるから子供たちがここで走り回るには不適である。もっとも会津の先人たちの苦労がしみ込んだ地である、子供たちの遊び場ではない。

「斗南が丘」を入り口から望む

 明治3年に会津戦争で鶴ヶ城を開城した会津藩士たちは、3万石も収穫があるといわれた南部領北部に移封された。その場所こそが「斗南が丘」である、元会津藩士たちはここに110棟の家屋を建て18戸の堀井戸を掘った、一棟の区画は100坪単位であった。しかしここに移れなかった藩士たちは近隣に住居を求めた。

「斗南が丘」での掲示板である、読めるだろうか。

「獅子の時代」の掲示板と会津藩の隊旗「會」

 斗南が丘で会津藩の隊旗「會」の旗を持つ筆者である。
斗南が丘こそ「會」がよく似合い場所である・・と思う。この写真を撮った後に斗南が丘に隣接する農家の奥様に遠くから声をかけられた。「会津から来たのですかー」といわれた、実際は埼玉県から来たのであるが事情を説明するのも面倒なので「はい、そうです」と答えた。すると声をかけてくれた奥様は「すごーい」なんて言ってくれました。この地に会津の人はたくさん来ているはずだ、しかし会津藩の隊旗「會」の旗を「斗南が丘」で
掲げるのは私ぐらいなんだろう(というより、「會」の旗自体を所持するのは私ぐらいなんでしょう)。

 下北駅から降りた下北の町には斗南藩にとって大切な場所がある、「円通寺」である。
会津藩が当初に斗南に流された時の藩庁は五戸(現在の五戸市)に在った、それが松平容保公の子供・松平保大が藩主として斗南に来てからはここ円通寺に藩庁が移された。円通寺の徳願寺が幼い松平容大の遊びになったという。現在も徳願寺はそのまま残されている。
 
円通寺の標門と一緒に写る会津藩の隊旗「會」

 円通寺に一歩明日を踏み入れて驚いてしまった、9年前の円通寺にはこんな建物は無かったはずだ。ドンとコンクリート造りの大きな建物が出現しました。

 立派な建物に高級そうな車が1台収まっていた、これがかつての斗南藩藩庁の今の姿かと驚いてしまった。しかしかの時代から150年になろうとしているか今、姿が見違えるほど今風であっても違和感はない。現代には今のあり様があるはずで、棄民となった斗南藩を引きづっていても将来は見えてこないはず。今の形に変わったことで安心できる面もあることは確かだ。

通寺の本堂

 写真は円通寺の本堂である、当時ながらの堂々とした本堂であると思う。余談であるが下北半島の中心部の恐山の宿坊はここ円通寺の直轄管理下にある。
私ら夫婦が訪れたのは平日の午前中であるが、私らと同じようか観光客が数人いた。参拝客ではなくおそらく歴史ファンであろう、たぶん会津ファンであると思う。

記者 伊藤 剛

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