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大和・天領の百姓一揆 「芝村騒動」、その3

2019年08月27日 17:32 by tama1

十市郡の九村、京都町奉行所へ箱訴

  耳成山(みみなしやま)奈良県橿原市木原町 近鉄耳成駅から徒歩約17分

 天香久山、畝傍山とならび大和三山の一つとして、歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定されている。

  耳成山の麓はかつては、木原村・葛本村・常盤村・内膳村・新賀村・石原田村など六村の田園地帯であったが、現在は閑静な住宅地として生まれ変わり、当時を偲ぶ面影が皆無 なのが残念といえば残念な気がします。

  さて、前稿の六村に膳夫村・下八釣村・吉備村をまじえた九村は、ここ耳成山(天神山とも呼ばれ天神山城があった)の八合目に位置する「耳成山口神社」に集まり、決起しました。

耳成山口神社

  大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・忍坂・長谷・耳成)のうちの一社で、皇室の舎殿用材を切り出す山の神として祀られており、また、境内には金毘羅神社・稲荷神社・白龍大神も祀られています。

  この場所に立った瞬間!当時もこういう雰囲気であったのだろうな・・・と鳥肌のたつ思いがしました。

  決起といっても、映画などでよく見る、筵旗をたて、代官所や村役人宅などに打ち壊しに行く暴動ではありません。あまりの重年貢に耐え兼ね、藩や奈良奉行所に訴えても問題にされなかったため、京都町奉行所に対して「箱訴」を行ったのです。

「箱訴」とは、八代将軍徳川吉宗が享保六年(1721)に設けた直訴の制度で、奉行所など役所の前に設けられた目安箱に訴状を投げ入れ、幕府に訴える制度です。 このように箱訴は合法として認められたものですから、彼らの行為が一揆として処罰されるものではない筈なのです。過去にも芝村藩預り地で、4年前の寛延二年(1749)に山辺 郡の九村が、また同年に十市郡の十五村と式下郡の十二村が合同で箱訴を行っています。

  それなら、宝暦三年の箱訴が後に芝村騒動と呼ばれる、大和最大級の一揆とされるに至ったのは何故なんでしょう。

八釣村に残っている宝暦三酉年十二月付けの「和州十市郡村々今度御箱訴諸控」に百姓たちの切実な嘆きが聞こえてくるようです。

 上島秀友著「芝村騒動」より

 有難いことに、この「願書」は下段に現代語訳をつけてくれていますので大変理解し易くなっています。それでは、ここも長くなりますが、百姓の切実な訴えを知るためには全文を読む必要があります。少し長くなりますがお付き合いください。

  恐れ乍ら駆け込み御願い奉り申し上げ候 織田丹後守殿預り所 和州十市郡九ヶ村惣百姓代

一、私どもの村は17年前より芝村の御預所に入り、以来年貢の取立は年々増加仰せ付けられ、長年が過ぎましたが、(このままでは)村の総ての百姓が潰れてしまうのは必至 です。尤も何れの御預所でも高免(高率の年貢)を仰せ付けられていることは承知していますが、芝村の取箇(年貢)は格別に高免を仰せ付けられており、即ち藤堂和泉守様の御預所は私どもの村の隣にありますが、聞き及ぶところでは年貢に格段の差が あり、芝村の年貢が以てのほか高免のために百姓が難儀しています。その事情を歎き申し上げます。

一、私どもの村は同藩支配所の中でも特に土地が悪く、至って畝詰りのある場所であり、しかも木綿に虫がつきやすい土地で、麦作も至って悪く、内損の多い(出来が悪い)村々です。それゆえこの事情を前々より歎き申し述べ、年貢のご容赦をうけて百姓相続してきました。しかしながら芝村の預り所になってからは、土地の善悪により内損の多い場合にも御賢慮なされることなく、(土地の等級や作柄に応じて)高免や下免を決めるということをせず、一律に年貢を仰せ付けられるようになったため、内損の多い村々であるので、(百姓たちは)必ずや潰れてしまいます。

  百姓が難儀していることについて役所へ数度願い出ましたが、一向にお聞き届け下さいませんでした。それでも格別の年貢であるので、自ずから年貢銀を皆済することに難渋し、上納日に遅滞すれば、お咎めがあり手錠のうえ入牢などと仰せ付けられます。

  お咎めの際の諸費等も毎年多くかかります。尤も大切な年貢の上納日を違えたことによるお咎めが難儀と申しているのではなく、年々の立毛(作柄)に不相応な年貢であることを問題にしているのです。

  百姓とは耕作を行い、年貢米を納めた残りのわずかの日当で命をつなぐ存在です。ところが芝村の検見(坪刈りし、作柄により年貢を決めること)を改められ、例えば百石の出来米なら毛付高に対して八、九十石も年貢を取立られます。

  その他にも村役人の給米や夫役の人足米等、諸人用が併せて掛かってきます。それらの高について申し上げれば、銘々の収穫全部を以て償ってもなかなか足りません。

  これにより年ごとに困窮が増すばかりで、年々借金も重なり、田畑を質入れし売却しようとしても、その田畑には徳用(利益)がないばかりか逆に損が出るため、田畑を売り払った代金で上納銀を調達しようとしても買ってくれる人もなく、着類、諸道具は勿論、最初から段々に売り果たし、大百姓も小百姓も百姓は着の身着の儘の状態で今日をも過ごしかねています。ですから自ずと年々の年貢に難渋し、期限の日を違えばお咎めをうけ、ますます難儀が重なっている次第です。

一、当年は木綿も、稲も共に不作で嘆かわしく存じておりました。然るところ立毛を見分の上、年貢初納分の割賦を仰せ付けられたところ、この立毛にしては不相応な夥しい銀高であったので百姓皆驚き、早速嘆願したところ、如何思し召されてのご容赦であったのか その銀高のうち最初一歩四厘を引下げられるとの由を年預(大庄屋)より仰せ聞かされ、さらに百姓が嘆いていると申し上げたら再び一歩半引かれ、都合二歩九厘引下げられるとの由を又々大庄屋から仰せ聞かされましたが、割替を以て銀高が改められたのはどのような思し召しによってのことか計り難く、これまでの年貢のことを考えれば、ただ百姓を宥めるための一時的な引き下げであると恐れ乍ら考えます。

  したがって稲を刈りこんでしまえば、これまで通り何を□□嘆いても、お聞き届けもございません。尤も作物はそのままにして手をかけて(刈り取って)いませんので再び見分下されば、すべて七歩出来の米であることが明白に知れます。 ならば、古検地では畝延び(縄延び)も無く、大変な畝詰り(増高無地)であると申し上げてきた経緯から、当然にご賢慮があるものと存じております。 刈り取ってしまえば、ご賢慮を求めようにも懇意に任せられず、また取り込んでしまえば自ずと窮してどのみち百姓は潰れてしまうため御吟味をお請けしたく、稲に手を掛けることができないでいるのです。よって去る十一月二日重たき御所(京都町奉行所)様へ恐れも顧みず、箱訴を行った次第です。

  何とぞ御慈悲を以てお聞き届け下されたいとの思いで、去る十一月朔日より村々の百姓の惣代として一村ごとに一、二名が赴いて、当地の宿である神泉苑町油屋善兵衛方に詰めて召し出されることを待ち受けていましたが、ご賢慮は叶っていません。

  四十日弱に及んでいますが何の沙汰もなく、最早稲は刈る旬を遥かに遅れ、枯れ草のように落ちてしまい、夥しい鳥が集まり荒らすので甚だ窮しており、何もかも捨てるような状態で難儀千万と嘆かわしく存じますが、刈り取ってしまえば作柄に不相応な年貢となってしまいます。

  これまでの年貢は既に初納した一回目分ですら地相場を以て積算すると、七公三民にも相当する〓い銀高になり、ましてやこれまで通り二回目分を納めよと追って仰せつけられば、作物のありったけを差し上げても完済できるとは思われません。その時には何を以て上納弁済すべきか、私どもの力ではとても及びません。

  もっとも大切な年貢を請負いながら、立毛(稲)をここまで放置したことは御公前に対してまことに恐れ多く、天の冥理もはかり難きことと存じていますが、右のような訳で稲を野に立ち置き(刈り取らないままにし、)御直訴訟に及んだ次第です。

  経緯は以上の通りであり、御直訴申し上げ、今となってもなお御番所様などへお願い申し上げておりますこと、もしも筋違いなどとお咎めがあるかも計り難く、誠に恐れ入っていますが、百姓も数日旅館に詰めて困窮しており、飯代も尽き果てこの上はどうなるのか途方に暮れ、お願い申し上げている次第です。

  何とぞ御憐憫下され、ご賢慮を以て神泉苑町油屋善兵衛方に差し控えている百姓らを早急に召し出し、御下知下さいますよう、恐れ乍ら御番所より仰せ下されば、広大な御慈悲と千万ありがたく存じます。

   和州十市郡九ヶ村惣代共連判

    宝暦三酉年      

   十二月 日    

 京都御奉行様 上島秀友著「芝村騒動」より全文  (橿原市史・史料第三巻より)

この箱訴を読んでみましたが、芝村藩の年貢の取立がいかに厳しかったか、よく理解できました。訴訟によると、「百石の出来に対して八~九割にも相当する年貢」だと歎き、これでは潰れ百姓となって村から逃げていくしかないと訴えています。

  江戸時代の年貢の決め方には検見法と定免法というものがあるそうですが、芝村藩は高い年貢取立に都合のよいやり方で検見法を採用していたようです。

  検見にも畝引(せびき)検見と有毛(ありげ)検見という方法がありました。 畝引検見というのは、農地を上・中・下の三等級に区分し、検見により等級ごとに決められた石盛(こくもり)を下回る場合は、その不足分を減じるというもので、はじめは芝村藩でも畝引検見により年貢が決められていたそうです。

  ところが、延享元年(1744)、勘定奉行神尾春央は幕府財政立て直しを図るため、大和など西国幕領巡見に出、巡見先で村役人らに脅迫にも近い厳しい年貢徴策を指令します。その中に有毛検見法と木綿勝手作仕法がありました。

  有毛検見とは畝引検見で行われた等級ごとの出来高見込みを判定するという方法を改め、等級に関係なく役人側が選んだ田の坪刈りを行って全体の作柄を判定し、出来高を算定するというものです。

  上・中・下の等級のうち「中」位の所の一歩(一坪)刈り取って並の稲毛を以て検見するのが、芝村藩の場合は「上」の田の出来の良い稲毛を恣意的に選んで坪刈りを行ったため百姓が悲鳴をあげたものと思われます。

  不作にも関わらず、こんな理不尽な方法で年貢を増やされれば百姓は破産するしかないと訴え、百姓たち行った稲の刈り取り拒否は、倹見によって公正に凶作の確認してもらうことを求めての行動であったのでしょう・・。

  さて、この箱訴の結末については、またまた長くなりますので次回に続きます。

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