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コーヒーブレイク「種々の小さな話」

2019年09月09日 15:18 by kohkawa3

その五十三 南無牛頭天王

 今年の夏も暑かった。暑い中、いくつかの祭りを見物した。どの祭りでも、お神輿の掛け声は「ワッショイ、ワッショイ」「セーヤ、セーヤ」と景気が良い。
 ところが、私の田舎では神輿の掛け声がちょっと変わっている。ワッショイでもセーヤでもなく「アンゴシテンノ」という。いまひとつ華やかに盛り上がらない。口の悪い年寄りは、ここの祭りは棺桶かつぎだといっていた。
 栃木県小山市の須賀神社の祭りである。神社の御由緒によれば、中世の下野の豪族小山氏のご先祖である藤原秀郷が「天慶3年(940)4月、京都の祇園社(八坂神社)から、御分霊を勧請してまつった」ものであり、八坂神社と同じく牛頭天王を祭る。このため、もともとは「ナムゴズテンノウ(南無牛頭天王)」と掛け声をかけたらしい。(異説あり)。
 これが言いやすいように「アンゴシテンノ」や「アンゴッセンノ」などと変化してきた。「ウンコシテンノ」などとおちゃらける罰当たりなガキもいた。
 この掛け声は慣れないと力が入らない。子供の頃、小学校3年生になると、それまで山車を引いていた子供が、神輿を担ぐ練習をする。町内の神輿を大人たちが見ている前で担ぐのだが、肩に重さがずっしりとかかり、「アンゴ」「アンゴ」と沈んでしまい、「シテンノ」が出てこない。
 牛頭天王という神様は「仏教の説に祇園精舎の守護神で、日本にはスサノオノミコトになって現れたとされている」(「小山の伝説」第一法規)という荒ぶる神であり、毎年の祇園祭で神の御霊(みたま)を鎮めるのだと聞いた。
 今でこそ大神輿や各町内の子供神輿が駅前に集まって賑やかにパレードをしているが、私が子供の頃は大神輿が大暴れした。重さ1トンの大神輿を辻で揉んだあと地面にドスンと落とす。神輿に潰されて時々死者が出た。荒ぶる神の御霊を鎮めるために、年に1回だけ御霊をのせた神輿で町中を暴れまわるのである。
 子供は危ないからと大神輿を見物するような雰囲気ではなかったが、私の実家は商売をしていたので、夏祭りに担ぎ手が血だらけになって駆け込んできたのを何度か目撃した。
 各町内の子供神輿も大神輿を見習って気が荒かった。小学生の頃のことだが、祭りの最終日、神輿の屋根の四隅に丸提灯を吊るして夜遅くまで町内を練り歩いていた。夜になると担ぎ手は高校生や中学生で、私たち小学生は太鼓を叩きながら神輿の後ろをぞろぞろついていく。
 隣町との境目の辻で運悪くというか運良くというか、隣町の神輿と出くわしてしまった。お互いが「ウォー」と神輿を頭上にかかげて揉み始める。大人たちは止めに入るが、止まるものではない。小学生は太鼓かついでおろおろと逃げ惑う。
 そのうちに神輿のトンボ(かつぎ棒)同士がガチッと組み合う。辻で神輿同士が押し合い、どちらかの担ぎ手が力尽きて神輿が地面に落ちるまでもみ合うのだ。
 提灯は燃え、命知らずの高校生が揉み合っている神輿に飛び乗り、相手の神輿の鳳凰に手をかける。団塊の世代の若者たちであった。
 近隣の住宅の塀がメリメリと音をたてていたのを覚えている。
 すでに鬼籍に入った叔母が、ある祭りの日の夜に、「私が娘の頃は街灯もなく真っ暗だったから、遠くの闇の中から男たちの低くて太い『アンゴシテンノ』の声だけが聞こえて、それが少しずつ近づいてきてゾクゾクしたもんだよ。そのうち提灯がぼんやりみえてきて、目の前に大神輿が現れて、揉んで揉んでドンと落とすときの迫力はすごかった。」と懐かしそうに話していた。
 今は、あばれ神輿の伝統はすたれ、「アンゴシテンノ」の掛け声だけが残っている。


その五十四 武蔵「五十子の陣」探訪

 埼玉県本庄市に五十子陣(いかっこじん)という戦国時代の史跡がある。暑い盛りにここを訪れた。
 五十子陣は耳慣れないものだったが、7月7日、岩槻郷土資料館講座「埼玉の中世城跡を考える2019」の第三回講演「本庄市五十子陣屋跡」(本庄市教育委員会 的野善行氏)を聞いて俄然興味がわいた。行かねばなるまい。
 本庄市は埼玉県の北の端にあり、利根川を挟んだ向こう側は群馬県である。JR高崎線本庄駅が最寄り駅になるが、五十子陣跡のある本庄市東五十子は駅から離れている。しかも暑い。車で行くしかないか、と近所に住む中学校の同級生を無理矢理誘いだした。私には車がない。
 さいたま市を9時頃に出発、2時間ほどで本庄市に到着した。五十子陣跡とおぼしき辺りを歩き回るが何もない。地図では「てんぐ茶屋」というレストランの建物の上に五十子陣跡の記号がある。たぶんこの辺りから直径数キロの範囲が五十子陣だったということなのだろう。最近の発掘調査によりいろいろなことがわかっているようだ。
 近くの駐車場の一角に「ほんじょうかるた」の石碑があった。
 《「く」桑茂る 五十子合戦 古戦場》
 これが唯一の手がかりだった。ほかに戦国時代の陣屋跡を偲ぶものは何もなく、普通の町並みがあるだけだった。
 カメラが趣味の友人もシャッターチャンスが皆無、暑さを避けて車の中で退屈していた。「・・・。」
 五十子陣とは何だったのか。
 戦国時代の幕開けを告げる応仁の乱から遡ること13年、関東では享徳の乱(1454年)が起こった。
 享徳の乱は古河公方・足利成氏(しげうじ)と関東管領・上杉房顕(ふさあき)、顕定(あきさだ)を核に、関東中の武将がそれぞれの陣営に別れて戦った。両陣営は利根川を挟んで対峙した。
 古河公方の拠る古河城は茨城県古河市にあった。利根川のほとりである。上杉陣営の軍事拠点となった五十子陣は、古河城から利根川を上流に60kmほど遡ったあたりにあった。
 古河城付近の利根川は水量も豊富で大軍が容易に渡れるような川ではない。古河公方陣営が対岸の上杉陣営を攻撃しようとすれば、浅瀬がある上流の本庄市あたりまで移動しなければならない。五十子陣はそうした軍事上・交通上の要衝にあった。
 五十子陣は、それが存在した17年間に上杉陣営の諸将が滞陣し、文化的・政治的機能を果たし、商人の出入りもあり城下町のような賑わいがあったという。江戸城を築城したことで有名な太田道灌が上杉氏の家宰として活躍したのもこの頃である。
 五十子陣は「関東地方の戦国時代が実質的に始まった場所とも言え、戦国時代史上の重要な遺跡と考えられます。」(的野善行氏)という貴重なものなのだ。
 五十子陣の東方2kmにある利根川に立ち寄る。このあたりの利根川は、下流の古河市付近の大河とはずいぶん違う。中洲や浅瀬もあり、大きく蛇行している。
 利根川を渡る古河公方軍と五十子陣から打ち出した上杉軍が、この広大な野で戦ったのだろう。目の前に広がる風景は、空に突き出た鉄塔をないものと思えば、戦国時代とあまり変わっていないのではないかと思う。
 利根川の流れを見ながら、ちょっとだけ戦国の世を偲んだのだった。
   (大川 和良)
 

五十子陣付近の利根川(本庄市)の流れ

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