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ザ・戊辰研マガジン

2019年09月号 vol.23

福島の小藩「下手渡藩」

2019年09月05日 00:17 by norippe
2019年09月05日 00:17 by norippe

 広瀬川と言うと、仙台の青葉城下を流れる川として思い浮かべる人が多いと思う。全国的に知られた仙台の広瀬川であるが、実は、日本全国にこの広瀬川と名の付く川が他にも沢山あることはご存知だろうか。
 広瀬川をざっと上げてみると

広瀬川 (青森県) - 青森県東津軽郡蓬田村を流れる本流の二級河川。
広瀬川 (北上市) - 岩手県北上市を流れる北上川水系の河川。
広瀬川 (奥州市) - 岩手県奥州市を流れる北上川水系の一級河川。
広瀬川 (宮城県) - 宮城県仙台市を流れる名取川水系の一級河川。
広瀬川 (福島県) - 福島県伊達市・伊達郡川俣町を流れる阿武隈川水系の一級河川。
広瀬川 (群馬県) - 群馬県前橋市・伊勢崎市を流れる利根川水系の一級河川。
広瀬川 (奈良県) - 奈良県北葛城郡広陵町・大和高田市を流れる大和川水系葛城川支流の一級河川。
広瀬川 (鳥取県) - 鳥取県倉吉市を流れる天神川水系岩倉川支流の一級河川。
広瀬川 (佐賀県) - 佐賀県西松浦郡有田町を流れる有田川水系の二級河川。
広瀬川 (熊本県) - 熊本県天草市を流れる本流の二級河川。
広瀬川 (大分県) - 大分県豊後高田市を流れる本流の二級河川。
広瀬川 (鹿児島県) - 鹿児島県肝属郡肝付町を流れる本流の二級河川。
(Wikipediaから参照)
これだけの広瀬川があるのには驚きだ。

 ここで広瀬川についてを詳しく話すつもりはない。
 福島県にある広瀬川は、二本松市の東側にある川俣町の山々を端に発し、月舘町、伊達町から梁川町、霊山町を流れ、阿武隈川へと流れ込んでいる。
 その広瀬川が流れている月舘町に下手渡(しもてど)という場所があり、幕末に下手渡藩として陣を置いた藩があった。1806年からわずか62年間しか続かなかった藩なので、会津藩や二本松藩のように誰にでも知られている藩ではなかった。
 私が住んでいるいわき市にも菊多藩という藩があったが、家督相続をめぐって御家騒動が勃発、藩は廃絶され幕府領となってしまった藩がある。ここも62年間の短い存在だったので知名度は低い。

 さて、福島の月舘町にあったこの下手渡藩は、一体どんな藩だったのか。
 下手渡藩は九州福岡の三池藩の飛び地であった。(三池は現在の大牟田)
 文化三年(1806)に三池(福岡県)から移封を命じられてわずか三代、62年間しか存続せず、戊辰戦争後は、再び三池へ戻ってしまったために、関係者もほとんどいなくなり、福島にあった藩としては非常に印象が薄い藩であった。

 三池は福岡県の最南端に位置し熊本県との県境にあった。三池藩は、筑後国三池郡を中心に、明治初年には陸奥国下手渡を飛び地として領有した外様小藩であった。
 慶長19年(1614)10月9日、立花直次は、常陸国筑波郡柿岡に5000石の旗本として取り立てられ、その子である種次が元和7年(1622)正月に5000石を加増され、旧領三池郡内に1万石の大名として入封し、三池新町に陣屋を築いた。

 立花氏は種次のあと、種長ー種明ー貫長ー長凞と継承し、長凞の次に藩主となった種周は寛政元年(1789)に大番役となり、同4年(1792)湊者番兼寺社奉行を経て、翌5年には若年寄に昇進したが、松平定信・言明路線と一橋派・大奥路線との幕府の内紛で後者に与したため、文化2年(1805)11月19日解任のうえ、12月27日蟄居・謹慎を命ぜられた。

 翌3年6月6日、嫡子順之助(種善)は陸奥国伊達郡下手渡10ケ村5000石に旗本として遷封された。旧領三池藩領は幕府に収公され西国筋郡代羽倉権九郎秘救の支配となった。
 秘救が文化6年(1809)に死去したため嫡子外記秘道が代官となったが、翌7年、秘道は越後代官に転出したため代わって三河口太忠輝昌が西国筋郡代として支配した。
 文化12年(1815)に輝昌が死去したため、嫡子八蔵輝光が代官となったが、翌13年に越後代官に転出した。
 同年8月24日、旧三池藩領は西国筋郡代支配から柳川藩預かり支配となった。
 嘉永4年(1851)下手渡藩の1万石の内3078石を返上し、その代わりに旧領三池5ヶ村5000石が最後の藩主となる立花種恭(たねゆき)に与えられた。
 旧三池藩領の内、残りの9840石余りは以前は立花柳川藩の預かり地であった。柳川藩立花氏と三池藩立花氏は藩祖が兄弟で、身内同然の親藩であった。

 幕末の藩主、立花種恭は英明で、外様の小藩主にもかかわらず、幕府の若年寄となり、一時的ではあるが老中格・幕府会計総裁に任じられた。そして、旧領三池に飛び地領を得ることにも成功した。
 鳥羽・伏見の戦いの後、幕閣であった種恭は、三月に下手渡へ戻って謹慎していたが、今後は新政府側に付くべきだと考えた。そこで、自身は三池の飛び地に移り、宗家柳川藩と行動をともにすることにした。
 殿様はそれでいいが、下手渡に残った家臣たちは、苦境に立たされることになった。5月の奥羽列藩同盟成立に際しては、家老の屋山外記が藩主名代として調印した。そうしなければ、四方から攻めこまれてしまうからだ。だが、戦火が近づいても、下手渡藩は沈黙していた。藩主の意に反して、同盟軍として戦うわけにもいかなかった。

 茨城の平潟港に上陸した柳川藩兵は、そういう状況下にあった下手渡救援を急いでいた。
 一方、列藩同盟の盟主である仙台藩は、藩主不在の下手渡藩の加盟を、最初から疑っていた。その疑惑は、まったく動こうとしない下手渡藩を見ているうちに、確信に変わって行ったに違いない。8月に入って、相馬中村藩(相馬氏、6万石)が新政府側に旗色を変え、仙台領へ攻めこんで来たことから、相馬領に隣接する下手戸藩を放置できないと、仙台藩は判断したのだろう。8月16日、200人ほどの仙台藩兵が下手渡の陣屋を襲った。
 天保2年(1831)の下手渡藩の家臣数は、足軽も含めて274人。戊辰戦争時は、藩主とともに三池へ居を移していた人もいたので、もっと少なかったと思われるが、仙台軍に比べて極端に少なかったはずはない。下手渡藩士は、屋山家老を先頭にして応戦した。しかし陣屋は焼失し城下も焼かれてしまった。

 救援の柳川藩兵が下手渡に到着したのは、その翌日の17日だった。わずかの差で間に合わなかった。
 しかし、援軍を得た下手渡藩兵は仙台軍を追い返し、その後は新政府軍として、周辺に出没する同盟軍ゲリラ隊の掃討に参加したのである。

伊達市月舘町の太郎坊山中腹に下手渡藩天平陣屋跡がある。そして明治35年に旧藩士によって建てられた懐古碑が残っている。


下手渡藩陣屋跡

(記者:関根)

 

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