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碑文に見る幕末 彰義隊の墓(円通寺)

2019年08月31日 13:41 by yutakarita

 慶応4年5月15日(1868年7月4日)、彰義隊と新政府軍が衝突する上野戦争が勃発した。

 連日の大霖が続く中、新政府軍は午前5時ごろに江戸城大手前に整列し、進軍を開始したのは午前7時前後のことだったという。そして午前8時ごろ、両軍の戦闘の火蓋が切って落とされた。上野から3キロほど離れた場所に住んでいた住民による回顧「上野戦争の日」(『同方會誌』)を紐解くと、住民自身が耳にし、目にした当日の朝の様子がよく伝わってくる。

 

 枕元にあたる父の寝間で、始まったという一声がした。愕然として目を覚まし、耳を欹てて聴きますと、世間はひっそりとしていますが、ただ車軸を流すがごとき大雨の音に和して、ドンドンという砲声と、あたかも豆を炒るようなパチパチという小銃の音が耳を貫くかと思うばかりで、その光景は何と云ってよろしいか、真にすさまじい事でありました。

 草履穿きに高股立、襷を十字に綾取り、太刀の反りをうって走り行く者もあれば、向こう鉢巻で小銃を負い、草鞋に足を固め、手槍を提げて行く人もある。真に勇ましく、また物凄き有様であります。

 

 上記の回顧を鑑みると、大村益次郎による綿密な作戦と戦陣を組んでいた新政府軍とは裏腹に、彰義隊の側では戦闘のための十分な準備がなされていなかったことが伺える。なぜなら、彰義隊士と思しき人々の一部が「戦闘開始後に」上野に参集しているからである。彰義隊に加わっていた隊士は、その全てが上野山内に常駐していたわけではない。また、正式に加盟してなくとも有事の際には上野に駆け付ける算段で自宅待機していた者もいたので、5月15日当日の彰義隊が万全の体制で新政府軍との戦闘に突入したわけではないと考えるのが妥当であろう。

 黒門口で衝突した両軍の戦況は、当初は全く互角のまま、一進一退の攻防が続いたという。10,000名ほどの軍勢である新政府軍に対し、1,000名ほどの彰義隊は兵力の上で圧倒的に劣っているにも拘らず、よく奮戦したといえる。しかし、正午近くになると、徐々に火力の差が現れはじめる。昼過ぎ、黒門口の東側にあった割烹店「雁鍋」と料理屋「松源」の2階に津藩の一隊が陣取り、彰義隊に向けて上空からの銃撃を開始した。また、黒門口の西側・本郷台に添えられた佐賀藩のアームストロング砲2門から放たれる砲弾が不忍池を超えて黒門口付近に着弾するようになると、上方と横側から攻撃された彰義隊は、たちまち銃撃の雨に晒されてしまった。午後2時、黒門口を突破した新政府軍が上野山内に突入するやいなや彰義隊は総崩れとなり、多くの遺体を残したまま潰走していった。こうして、半日にわたる上野戦争は幕を閉じたのである。

 戦後、上野山内に残された彰義隊士たちの遺体は、266体を数えたとされる(山崎有信『彰義隊戦史』)。新政府軍の遺体はすぐに片づけられたものの、彰義隊の遺体は「賊軍」であるがゆえに、しばらくの間当地に放置された。戦闘から3日後の5月18日、南千住にある円通寺の僧侶・仏磨(ぶつま)和尚と侠客・三河屋幸三郎が新政府に埋葬の許可を得て山内にあった遺体を集め、荼毘に付している。火葬後の遺骨は円通寺に埋葬され、残る遺体は土中に埋められた。その跡地が、現在の上野公園にある彰義隊の墓であるとされる。そして、この縁がきっかけとなって、明治40年(1907年)10月に寛永寺の正門かつ上野戦争時の激戦地となった黒門が円通寺に移築された。黒門は現在も同地にその名残を留めており、彰義隊士たちの墓がある墓域の一角をなしている。

 

 

 前回の上野公園における彰義隊の墓に引き続き、今回は円通寺における彰義隊の墓所と、同地に据えられた碑文に目を向けてみたいと思う。まずは、寺の正面に配置されている黒門を見てみよう。弾痕の跡が生々しい黒門の脇に「荒川区指定 有形文化財・歴史資料 旧上野の黒門」と題された碑文が配置されている。そこには、以下のような記述がある。

 

荒川区指定 有形文化財・歴史資料 旧上野の黒門

 この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(一八六八)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊士の遺体を、当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅籠町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(一九〇七)に帝室博物館より円通寺に下賜された。

 

 菊地明『上野彰義隊と箱館戦争史』(新人物往来社,2010年)では、仏磨和尚と一緒に埋葬作業にあたった三河屋幸三郎は「侠客」と表記されている。しかし、円通寺の碑文では「商人」と表記されている。侠客と聞くと「やくざ」を想起してしまいそうだが、広辞苑等で調べると「強きをくじき弱きを助けることをたてまえとする人。任侠の徒」などと説明されているため、必ずしも「やくざ」のような職業(?)を指すものではなく、個人の性質を表すタームであると考えられる。そのため、三河屋幸三郎のことを「侠客の商人」と形容しても間違いではないように思う。

 続いて、彰義隊の墓所の入り口に向かうと、東京都荒川区が平成4年に設置した「あらかわの史跡・文化財」と題された、次のような説明版を目にすることができる(説明版の裏側に、設置年を記す「平成四年度設置」と書かれた小さなシールが貼ってある)。

 

彰義隊士の墓

 慶応四年(一八六八)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。

 これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。

荒川区教育委員会

 

 前回の分析対象だった、台東区教育委員会が上野公園に設置している「彰義隊の墓」の説明板と比較すると、その記述は彰義隊士の埋葬に関する事柄に特化されており、彰義隊とは何かという説明がない分、シンプルな内容となっている。彰義隊にとって、上野公園は「墓所」であると共に「戦場」でもあるが、円通寺にはあくまで「墓所」としての属性しかない。そのため、このような書式になっているものと想像できよう。説明の内容は黒門脇の碑文と同じであり、三河屋幸三郎の立場は「寛永寺御用商人」と詳細化されているが、商人という点では先のものと共通している。ゆえに、荒川区が公示している彰義隊関連の説明には一貫性があると考えていいだろう。

 墓所の入り口に一歩入ると、すぐ右手に「彰義隊の墓」がある。上野公園の設置されている墓と比べてはるかに小さく、献花はされているが、これも上野ほどではない。ただ、上野の墓と同じく、こちらも墓石には「彰義隊之墓」などといった明示的な文面が刻まれているわけではなく、献花台に挟まれた部分に「墓死戦」(右から左に読む)と記されているのみである。これは戊辰戦争直後の時期「賊軍」とされた人々の大っぴらな埋葬が憚られた、もしくは認められなかったことに起因するものと思われる。そのため、火葬された彰義隊の遺骨は当地にひっそりと埋葬され、今も静かに眠りについているのである。

 

 

 最後に、円通寺の墓所の片隅に、彰義隊の実質的指揮者であった天野八郎(1831年[天保2年]~1868年12月21日[明治元年11月8日])の供養塔が建てられているのを見つけた。上野戦争での敗北後、再起を図る天野は江戸市中に潜伏していたが、7月13日の早朝に残党狩りの新政府軍兵士に見つかり、江戸城和田倉門の糾問所獄内に繋がれてしまう。獄中の天野は、拷問に耐えつつ、彰義隊結成からの顛末を記した『斃休録』(8月17日脱稿)を書き残し、11月8日に獄中で病死した。享年38歳。彼の葬儀は認められず、遺体は南千住の小塚原の刑場の片隅に埋められたとされている。天野の遺体が埋められた場所に供養塔が建てられているのかどうかは定かではないが、円柱でできた供養塔の側面には「俗名 天野八郎」の名が確かに刻まれていた。

 

 

 北にのみ 稲妻ありて 月暗し   天野八郎

 

 (文責:有田 豊)

 

◆参考文献

 天野八郎『斃休録』未出版, 1868年.
 (国立国会図書館デジタルコレクション:2019/07/01 available)

 菊地明『上野彰義隊と箱館戦争史』新人物往来社, 2010年.

 山崎有信『彰義隊戦史』隆文館, 1904年.
 (国立国会図書館デジタルコレクション:2019/07/01 available)

 『同方會誌』同方會, 30号.

 

 彰義隊の戦いについては、杉浦日向子の漫画『合葬』(筑摩書房, 1978年)がお勧めです。映画化もされています。

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