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ザ・戊辰研マガジン

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阿弥陀寺と御三階

2019年07月06日 15:43 by tetsuo-kanome

 会津若松市七日町に、阿弥陀寺があります。その敷地内には『御三階』があり、かつては會津鶴ヶ城本丸内にあった建物です。外観上は三階ですが、内部が四層になっております。板敷きの床は歩くと音の鳴る鴬張りで、最上階へは引き上げ式の梯子という特殊な構造をしており、かつて會津鶴ヶ城にあった時には秘密会議に使われていたそうです。当時の會津鶴ヶ城の遺構として、現存する唯一の建物であります。御三階は、三階建てのため御三階と呼ばれ、上の階に上がるほど部屋が小さくなります。屋根は神社や寺に多い木羽葺き玄関の屋根は、真ん中が盛り上がった曲線が特徴的な唐破風という形をしています。部屋には、打った釘を隠すために使う「釘隠し」という飾りがあります。飾りの模様が各階で違うため限られた身分の人しか入れなかったと考えられています。 明治3年本丸にあった鶴ヶ城御三階は阿弥陀寺に移送され、仮本堂として使用されました。その玄関部分に飾られた三つ葉葵の紋が見守る境内には、戊辰戦争で戦死した会津藩士の墓や元新撰組の斎藤一(藤田五郎)の墓や萱野権兵衛の墓がひっそりと佇んでおります。戊辰戦争の終結後、城下及び近辺で戦死した会津藩士の遺骸は、新政府軍の命令で触れることは許されず放置されておりました。幾度もの嘆願により、やっとその埋葬許可が下りたのは翌、明治2(1869)年の2月。埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、ここ阿弥陀寺には、およそ千三百柱にのぼる遺骸が埋葬されました。今でも春・秋の彼岸には供養会が行われ、戊辰戦争に散った若き藩士たちの魂を手厚く弔っております。 元新撰組三番隊隊長として有名な斎藤一は、戊辰戦争の際「会津を見捨てることはできない」と、北へ向かった土方歳三と別れて会津に留まりました。戦争終結後は藤田五郎と名を変えて、警視庁に勤務し西南戦争で活躍をしました。大正4(1915)年に72歳で往生を遂げた斎藤は、後半生を会津人として生きた彼の希望により、ここ阿弥陀寺に葬られております。幕末の動乱から明治、大正を生きた彼の墓には、今でも参拝者の姿が絶えません。

【会津藩戦死者の墓】

 

【斎藤 一(藤田五郎)の墓】

【晩年の斎藤 一】

 

【萱野権兵衛の墓】

 

  近年、御三階の隠部屋から発見された「晩年の松平容保公肖像画」「南口戦いの図」「飯盛山イタリー碑」は、2015年4月2日~6月30日までの「ふくしまデスティネーションキャンペーン」の期間中、特別公開されておりました。

【松平容保公の肖像画】

【會津鶴ヶ城南口の戦い図】

【飯盛山イタリー碑】

 近年、この「御三階」から三作品が発見されたとは、本当に驚きました。まだまだ会津藩に関係する遺構はどこかに眠っているのかと思うとまさにミステリアスです。私は、2015年に家族四人で会津を訪れた際に、阿弥陀寺の御三階の一階で公開されておりましたので目にすることができました。

【記者 鹿目 哲生】

 

 

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