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ザ・戊辰研マガジン

2019年07月号 vol.21

御斎所街道そして古殿町の戊辰戦争

2019年07月05日 23:00 by norippe
2019年07月05日 23:00 by norippe

 いわき湯本から西方向に御斎所街道という道がある。石川町に通じる道で、石川町からは西に白河市、北に須賀川市へと通じる街道である。
 昔はいわきから牛馬が物資を運ぶ物流の要路となっていた。街道の途中には崖が連なり、はるか下には鮫川が流れ、通行には極めて危険な場所が多くあった。特に御斎所峠といわれる場所は道幅も狭く、一歩間違えば100mもある崖下に転落してしまうような場所もある。ここから落ちた馬や荷車は二度と帰ってくることはなかった。もう一つ危険なのは「追いはぎ」である。身ぐるみ剥がされて帰ってくる通行人もいたという。覚悟を決めて通らなければならない場所がこの御斎所峠であった。現在は道も改良されトンネルが掘られて、この危険な峠を回避した道路となっている。
 当初は磐城街道と呼ばれていたが、明治26年から公式に御斎所街道と呼ばれるようになった。このいわきと石川を結ぶ道は県道14号線であるが、地元の人達が14号線と呼ぶ事はほとんどない。

 御斎所街道の始点はいわき湯本。湯本の街を西に進み温泉街を過ぎると、常磐道のいわき湯本インターチェンジ、更にはレジャー施設のスパリゾートハワイアンズの正面入り口に達する。そのまま真っすぐ進むといよいよ街道の雰囲気が味わえる風景となって行く。途中、遠野町という町を通過、この町の北側には遠野城という山城の城跡がある。この遠野町を過ぎると道は御斎所渓谷へと進んで行く。


御斎所洞門(昭和51年 高萩純一氏撮影)

 昔は、大型トラックなどが来るとすれ違いが出来ず、早めに退避してトラックの通過を待ってから車を走らせるといった具合であった。また、急カーブがある場所も数か所あり、突然対向車とはちあわせになり冷や汗をかく場面がある。今は道路も良くなりそういった苦労は無くなったのである。
 しばらく車を走らせ御斎所峠を過ぎると、道路は鮫川の高さ近くまで下がり、この鮫川と並行した道路となる。そして古殿町という町に辿り着く。

 この古殿町は私の家内が生まれ育った町で、「越代の桜」という日本でも指折りの巨大な山桜があり、桜が咲く時期になるとアマチュアカメラマンがこぞって集まって来る場所なのである。また八幡神社では毎年、流鏑馬祭りが開催され、馬に乗った武士が走りながら弓矢を放つ流鏑馬を見ることが出来る。またこの八幡神社にはとても大きな銀杏の木が建っていて、銀杏の葉が真っ黄色に色付く頃にはライトアップされて見物に来る人の目を楽しませてくれる。
 また、町の農協がある敷地内には、幕末、東北を周遊して歩いた吉田松陰、その松陰の石碑が建っている。いわきの植田町にやはり吉田松陰の遊歴碑が建っているが、そのあとに松陰はこの古殿町を訪ね、そして宿泊したのである。


古殿町にある吉田松陰遊歴の碑


古殿八幡神社

 この古殿町、幕末の頃は小見川藩(現在の千葉県香取市)の飛び領地であった。そしてこの古殿町の御斎所街道沿いの千石という場所に役所を設けていたのである。戊辰戦争時、いわきから白河に向かうにはこの御斎所街道は必要不可欠な道であった。



 そんな古殿町も戊辰戦争の戦禍に巻き込まれた事実がある。古殿町史に古殿町戊辰戦争の状況が記されていたので紹介したいと思う。

以下、古殿町史より

近世の古殿(戊辰戦争)
第三章維新前夜の古殿


第一節戊辰戦争と古殿
明治維新は、近代日本が脱皮するために、演出された複雑、多彩なドラマであった。山間へき村である古殿地方は、実は驚くべき事実、重大な事件が次々に惹起し、人心の不安、生活の困窮は極限に迫っていたのである。これを裏付ける詳細な日記が「仙石陣屋文書」中にかきとどめられている。
(一)維新前夜
異国船渡来によって、泰平の夢は破れられた。安政2(1855)年11月18日、仙石御役所から、村々の寺院に対して鐘の強制供出のお触れが出された。同じことは今次の第二次大戦でも行ったが、これに対して、広覚寺など八ヵ寺は連署で次のような回答を出している。
「此寺院共一同申上候拙院共儀者何れ茂無録ニて古来之名器并半鐘時之鐘ハ勿論撞鐘等茂一切無御座候御糺ニ付申上候処相違無御座候以上安政ニ卯年十一月京都妙心寺末」
安政3(1856)年6月、小見川藩主内田主殿頭は大阪城加番役になって下阪することとなり、その支度金など入用になったので、領下の村々に御用金の割当てが行われた。
御用金の調達はこの後何度かありその額はばく大になっている。泣く子と地頭には勝てないたとえのとおりであった。
文久3(1863)年4月29日、小見川藩主内田主殿頭が、仙石役場にくることになった。殿様が飛地の領下を視察するということは、この地方では近来にない大出来事であった。
(ニ)戦禍古殿地方におよぶ
元治元年(1864)6月次のような達しがあった。
「近頃浪人共水戸殿浪人、或は新徴組抔と唱、所々身元宜者共より攘夷之儀口実に無心申懸(以下略)」これは前年11月に出た水戸浪士取締りのもので、その頃既に、天狗党は野州の太平山、常陸の筑波山に籠っていた。
その残党は八溝山に逃げこもり、遂にこの騒ぎは直接古殿地方にはおよばなかったが、隣藩におきた水戸天狗党は山間のへき地にも大きな刺激となったようである。
大阪を脱出した会津松平容保は海路江戸に向い、その一部は平潟港に上陸し、大阪城内にあった大砲数門と弾薬を牛馬につけ、仙石役場下を通ることとなり、その警護の会兵も日々通行した。(大型大砲は新潟廻りになったという)。こうして、今まで風の便りとして聞いていた、会津征伐は村民の目に強く映じたが、何故に会津征伐が行われるのかは「一向に相分り申さず候。御地江戸表之儀は如何御承知被成候哉甚心配の事と奉存候」と「仙石陣屋日記」は記している。
会津藩軍兵の通過のその後、今度は本物の大名行列が村の街道を通った。湯長谷一万石の藩主内藤長寿磨(政養)は江戸屋敷を引き払い藩士に守られて帰国することになったが、水戸城下を通ることをはばかり、奥州街道をきた所、大田原付近に騒があり本街道をさけて田島から岩瀬湯本を通り、白川から石川に出て、夜四つ時(午後10時)石川に一泊、翌朝仙石を通過した。「何の差支えもないのであるから、苦しからず。ただただ通してくれ」と下手に出ての懇願であった。
それから何日かは士分が引き続いて街道を通過し、道筋の村々はおだやかさを失い、戦争の渦がひしひしと古殿地方をおおうような気ざしが見えてきた。
戦争の気配が高まり、世上不安になってくると、その機に乗じて悪党が立ちまわり、豪家の土蔵破りなどが行われるので、藩から次の達しがあり、各村々は自衛手段を考えて、後年のような自警団が組織されることになり、鉄砲を用意して、にわかに砲術を学び、剣術のを心得のある者を師として若者達に剣術を習わせるという、泥縄式の特訓が行われたが、いざ鉄砲を使うとなるとさびついていて手入ができない上、弾丸もないという笑えない悲劇もあった。

第ニ節戦争と世直し一揆
(一)会津・幕兵の侵入
慶応4(1868)年4月20日の陣屋日記に「今朝医師の鹿岡修蔵がきていうには、鹿岡の甥が今朝石川から参っていうには、昨夜会津兵が白川城に押し入り、今晩七ツ時(午前4時)城の攻防戦がはじまった。平藩、泉藩、湯長谷藩らが城にこもる会津兵を攻めたてたが、四十余名の負傷兵が逃げ帰り、三坂通りへ入った」由の話であった。
5月7日、戸倉村から仙石、山上の各村々へ順達があって、明8日相馬藩軍役180人が通行することになったから、人馬130、内人足88人、馬44頭継立てよという。これは官軍の白川城総攻撃が近いことを物語っている。
14日、名主有賀源左衛門から村継状が伝えられ、戦争が近いと知ると、村々は大混乱におちいり婦女、子供は皆山へ逃げてしまい、御役所では番太を出して、村々の警固を督励し「たとい何の臣などと申来り候とも、無体ニ不法の儀相働候ハバ、兼テ近村共申合せおき候相図次第討ち寄り召捕申出可き候」と下知している。(農兵警固につく。去る慶応2(1866)年江戸屋敷に上り、増上寺警固に足軽として従事し、苗字帯刀を許された者には刀を帯びて役所や村々を警固することを命じた。)
5月16日、相馬兵70余名通過、11、15、16日の三日間のうち、仙台藩兵7千人は、伊達藤五郎、吉田山三郎が指揮して相馬の黒木から、御斎所を封して下松川に出て竹貫を通過した。白川城総攻撃の命を受けた諸藩の軍兵が、白川に集結するには、竹貫の街道を利用するのが最も軍略に適していたのであろう。その都度各村では人馬継立にかり出されたのである。これでは山上村の小前共が、戦争を忌避して山籠りした理由がよく理解できるが、もう山籠りは許されない状況に追い込まれていた。
5月18日暮六ツ頃(午後6時)、会津藩と名のる30歳前後の侍が共をつれて村に現れる事件が持ち上がった。「別の儀ではないが、我等白川表でしばらく出陣しているが、入用金に差支えている。・・・先ず、50両も借用したい」この侍の人柄などに問題がないとし、19日の朝話が決着し20日、15両に返書を添え持参させた。四ツ半(午前11時)谷地村から急使が飛んできて、谷沢形見のあたりに、官軍が3、5人参ったしらせであった。すは官軍と色めき立ち、村人は先を争って山へ逃げ出した。この旨鎌田村へも順達したので、鎌田の人々もなんとはなしに皆山へ逃げかくれてしまった。
これまで官軍の姿はこの街道では見かけたことがない。仙台藩や会津兵はよく通行しているので、官軍はどこかの間道を通っているのかもしれない。吉見屋の松山健夫の許に軍資金を届けた竹次、与太郎が帰ってきていうには、「軍資金を届けて吉見屋にいった時、松山の部下で、20歳くらいの若い士が、鉄砲を背負い出て行き、やがて戻ってきていうには、谷沢、形見村あたりで、ニ、三軒の農家により、それから越後屋に入って、その門口で鉄砲三発うったのが、官軍とあやまられたのではないか」という。この他に何の異常もなく、一同ほっと胸をなでおろした。
24日になってようやく天候が回復し、夕方に雷雨があった。この夜から白川で戦争がはじまり、大砲の音がとどろき渡った。
25日天気、夕雷雨あり、今日も戦争の様子、白川あたり出火の由
26日天気、夕雷雨
この日も暁の七ツ時頃(午前4時)から大砲がとどろきはじめた。いつもと様子がちがっていた。(官軍白川城総攻撃であった)そこで、名主の有賀源左エ門が、家の後ろの山に登ってみると、白川、白坂の間で合戦の模様、大砲、小筒の音が激しく聞こえ、白坂とおぼしいところが焼けているようで、黒煙がもうもうに立ちこめ、昼すぎまでその煙は立っていた。また白川と白坂の間にも煙が立ち、大小砲の音はいっそう激しくなった。夕立がきたので山を下りたが、その後も火煙がたちのぼり、晩ごろになって大砲の音がやんだ。
27日。今日は戦争がない様子。ところが、夕方急使によりあらかじめ知らせのあった、会津の敗兵が名主有賀源左衛門の所にあらわれ、軍資金5両を受け取り、去っていった。
6月になった。戦火は去って、棚倉御領には御高札が街の辻にかかって、人々は安堵の胸をなでおろしているという。
ところが、安心は早かった。6月9日の午後、どこの藩ともわからぬ敗惨兵がまた村中にやってきた。ようやく20両を調達して頭を下げたが、4人の敗兵は役元の門先で鉄砲3発打ち、さらに役所前で、おどしニ三発をうち、役元前から役所の長屋へ向かってニ発打ち込み、蔵を封印するとおどかした。そこで村方は再び会合して、さらに10両を増やして30両を差し出しようやく村を去らせた。
翌朝四ツ過ぎに、また敗兵3人がきて前同様に、金子か米なりとも軍用に差出せという。しして「徳川臣森見造」と名のった。こうした敗兵を名のる賊徒が絶えないので、音を上げた村々は、遂に困り果て、訴状を隣藩の棚倉藩にだして対策を申し出た。
ところが、棚倉藩では川上直記という侍を仙石役所に派遣したが、官軍は平潟表に上陸して、関田、荒町、上田辺でも戦争が生じており、徳川家再興を期している棚倉藩としては取り締まりの士に不足しているとて、むしろ、御斎所通り、荷路夫通りの両道警固こそ肝要であるから農兵をもって守るようにいわれてしまった。

6月24日棚倉藩の郡奉行臼倉国蔵・代官長谷川右衛門が供廻り5人をつれて、仙石御役所にきて、軍粮の協力方を申出て論議をしていると、宝木村から早使がきて、ただ今棚倉表一帯に火の手が上がっているとの注進があったが、奉行と代官は、わが棚倉城は厳重に手配しているので破れるはずはない、民家の火であろうといっている所に「棚倉城落城」の注進があり、多くの難民と共に軍兵も、宝木、戸倉に向かって敗走してくる。鎌田村のあたりもそうであるので、奉行ら一行はあわてふためき「もし落来る者の中に身寄の者があるから、その節は頼む」というと、どこへ行くのか姿をくらましてしまった。

25日は棚倉城落城のため、落人老若男女引きもきらず通行し、山上、論田、仙石その他の村々は昼夜ひっきりなしに人馬継立に狩り出され、村々では、詰番・人足をおいて自警を行ない、この騒は27日まで続いた。この日下山上村上組の組頭が辞退申出た。戦渦に耐えられなかったのである。
28日白川辺に戦争あり
29日今日も吉子川より矢吹辺戦争有り
棚倉表江御詰の官軍は、長州800人、土州800人、薩州800人、大垣400人、武州忍400人、彦根800人、黒羽400人、計4,400人。この軍馬の継立に16歳以上60歳までの村々百姓は狩り出されることになった。昨日は敵徒のため、今日は官軍のために使役されるのは、ひとり農民で、その間に官軍の巡察隊には、金品の心づけを賄う必要があって村々を廻り裕福な家や役所にきては権柄づくの態度で米、鶏、野菜、金品を強要していた。
7月6日官軍夫方出役、黒羽藩小室某に、一、金三百疋、一、鶏卵五十、さらに茶菓子、酒肴は当然出さねばならなかった。
遂にたまりかねた村々では、慶応4年7月、日付で、訴状を出して窮状を訴え、五ヵ年年賦返納で御上納金、高一石につき金一分ニ朱の拝借を願い出ている。

明治元(1868)年8月22日に会津鶴ヶ城は籠城一ヶ月で遂に落城し、この風聞がこの地方に伝わったのは9月2日である。
9月27日付で、岩城平表民政裁判所から書状が到着し戦乱が終わり新政府の世の中となり、古殿地方は岩城平民政局の支配になった。
10月18日。芦野藩の大平喜平治の名儀により、芦野宿の助郷出役の命ができ、芦野へ18人、白川へ5人、計23人であった。そこで村役人一統は、岩城民政局の支配下に入ったのであるから、他藩の命に服する必要はないとして、石城笠間藩人神谷陣屋へ訴え出た。
11月14日日附で神谷陣屋の武藤甚左衛門、與野山八十左衛門の名で、芦野宿助郷は御免になった旨の書状がき、つづいて11月22日付で書付が発行された。
長い間紛争を続け、塗炭の苦しみを味わった奥州街道芦野宿定助郷への出役はこれを以って終焉したのである。しかし、11月晦日付けで、人馬助郷はまた旧例にもどす旨の民政局の通達が出ているが、間もなく発足する明治新政府は、助郷制を根底から改める政策が間もなく打ち出されるのである。

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