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大和・天領の百姓一揆 「芝村騒動」、その1

2019年06月30日 16:28 by tama1

 大和・天領の百姓一揆 「芝村騒動」 以前から私は自宅から1km以内で起こった「芝村騒動」と言われる大和・天領地に起こった百姓一揆事件にずっと関心を持っていました。 いつか詳しく知りたいと思いながらも幕末史を優先していたのですが、大和の代 表的な幕末史「天誅組の変」や「明治維新」の150年記念事業も終わり、一息つ いたところで、先日、図書館に行った際、見つけたのがこの一冊!

  私の「芝村騒動」に関する認識といえば、宝暦三年(1753)11月から12月にかけ て、十市、式下、葛下の三郡の農民たちが天領を預かる芝村藩(現桜井市織田)の過酷な年貢取立に抗して立ち上がり、京都奉行所に強訴した大和における大きな百姓一揆事件であった。 というぐらいで、具体的な村々は何処なのか?集団で箱訴を起した要因とは何なのか?大和の天領とは?芝村藩はいったいどんな取り立てをしたのか? その後の吟味の詳細及び結末はどうなったのか?等々詳細はまるで知りませんでした。ぱらぱらと頁を繰ってみると、まさにその知りたいことが詳細に書かれているではありませんか。 誠に興味深い歴史にぐんぐん惹き込まれていくようで、すぐに借り出して、自宅に持ち帰りました。

  早速、この本を参考にして「芝村騒動ゆかりの地」を巡り、勉強してみたいと思います。 その前に先ずは、最初の訪問先のお寺(膳夫(かしわて)念仏寺)で戴いた芝村騒動の講演資料から「芝村騒動」について概要を書いておきます。

  天理大学 谷山正道氏が2007年に、ここ念仏寺において講演された資料です。 初めて芝村騒動に触れる人や子供たちにも解るようにやさしく表現された素晴らしい資料です。少し長くなるかも知れませんが後学のためにもほぼ原文のまま書き記しておきたいと思います。

「芝村騒動(しばむらそうどう)」について

 宝暦(ほうれき)3年(1753)に大和国(やまとのくに)の幕府領(ばくふりょう)の村々で百姓一揆(ひゃくしょういっき)が起きました。 この一揆は、芝村藩(しばむらはん)が幕府から預かって納めていた村々で起きたことから「芝村騒動」とよばれています。 また、葛本村(くずもとむら)や膳夫村(かしわてむら)をはじめ、十市郡(とおいちぐん)の村々が中心になって一揆をおこしたことから「十市騒動(とおいちそうどう)」とも呼ばれています。

「芝村騒動」の主な原因は、幕府の命令にしたがって芝村藩が年貢(ねんぐ)をたくさん取ろうとしたことにありました。 この年は稲と綿ともに出来がよくなかったので、百姓たちは「年貢を引き下げてほしい」と何度も芝村藩に願い出ましたが、いっこうに聞き入れてくれませんでした。 そこで、十市郡の各村の村役人(むらやくにん)たちは、耳成山に集まって話し合い、京都の町奉行所(まちぶぎょうしょ)に置かれていた目安箱(めやすばこ)へ、 「このままでは生きていけないので年貢を引き下げてほしい」という内容の願書 (ねがいがき)を入れにいく(「箱訴(はこそ)」を行う)ことをきめました。

  十市郡の村々(木原(きはら)・葛本(くずもと)・常盤(ときわ)・内膳(な いぜん)・新賀(しんが)・石原田(いしはらだ)・膳夫(かしわて)・下八釣(しもやつり)(以上現橿原市)・吉備(きび)(現桜井市)の九村をいう)の代表は、京都に行って、11月2日に「箱訴」を行いましたが、京都奉行所から回答がなされなかったので、 その後繰り返して箱訴を行ないました。同じ頃、式下郡(しきげぐん)や葛下郡(かつげぐん)の村々の代表も、それぞれ「箱訴」をおこなったようです。

この芝村騒動について注目されるのは、次の4点だと谷山先生は言っておられます。

①村の「総百姓(そうびゃくしょう)」が団結し、「庄屋(しょうや)」や「年寄(としより)などの村役人が中心になって一揆をおこしたこと。

②「箱訴」をなんども行うとともに、願いを聞いてもらうまでは稲の刈り取りをしようとしなかったこと。

③五公五民(ごこうごみん)を超える芝村藩のきびしい年貢の取り立てを批判したこと。

④芝村藩の支配(しはい)をうけるのはもういやだとして、ほかの役所(例えば藤堂藩)にかえてほしいと願い出たこと。

そして、この一揆に関する取り調べは、幕府の勘定奉行所で、翌年(1754年)正月から 始められました。十市・式下・葛下3郡の33カ村、221人の百姓が江戸へ呼び出され、きびしい取り調べを受けたのです。

  その結果、幕府の勘定奉行は「大変恵まれた国である大和の百姓が困窮(こんきゅう)しているとすれば、 それは、「質素な暮らしをしていないからだ」として「芝村藩の年貢のとりかた に全く問題はない」と述べるとともに、宝暦5年(1755)の8月7日に処分の申し 渡しをおこないました。

  これにより、十市郡常盤村の彦七(ひこしち)が死罪、4名が遠島、32名が追放とな りました。そのほとんどは村役人であった人々で、膳夫村の庄屋三郎助(さぶろうすけ) も伊豆の新島(にいじま)へ遠島となりました。なお、厳しい取り調べのため、処分がき まるまでに37名が江戸で亡くなっており、膳夫村の新六(しんろく)は宝暦4年(1754)4月9日、新七(しんしち)は宝暦5年(1755)2月12日に亡くなっています。

  こうして、「芝村騒動」は大きな犠牲をともなって終わりましたが、この頃をさかいに、一揆をおこした村々の年貢の額は減少する傾向をみせるようになりました。 その意味で一揆の成果はあったのであり、関係の村々では、犠牲者(命をかけて 村のために力をつくしてくれた人々)の位牌や記念碑(きねんひ)が作られ、そ の功績が長く伝えられていきました。膳夫の念仏寺にも、新六・新七と新島で一 生を終えた三郎助の名前がきざまれた墓石がのこされています。

 浄土宗「念仏寺」 奈良県橿原市膳夫町358

JR桜井線香久山駅から0.6km寺門を入ってすぐ左の場所に三人の戒名が刻まれた一基の碑が建っています。 私の目にははっきりと捉えることが出来ませんが、調べてみると、正面にみえる 三名の戒名は以下の通りで、この碑の施主は村中と刻まれているそうです。

釋智喚士 宝暦五巳 二月十三日

圓山英智 明和三   二月十九日

 一窓浄園 宝暦四申 四月廿九日

 この釋智喚士こそが三郎助であり、没年の月日までが分明である。 他の二名については明らかでないが村中によって祀られており、碑の裏面には俗 名新六、俗名喜多三郎助、俗名新と刻まれていることからもこの事件に関係して いた人に間違いはないと思われています。ただ、この二人も遠島せられたかどう かについては解っていないそうです。                ~続く~   

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