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ザ・戊辰研マガジン

2022年04月号 vol.54

おやじのブログ、その9 〈再び、会津藩「海防警備」へ〉

2022年03月28日 17:03 by minnycat
2022年03月28日 17:03 by minnycat

〈再び、会津藩「海防警備」へ〉

-◇- 松平容保が藩主容敬の養子となった弘化四年(1847年)二月、幕府は欧米列強のアメリカ、イギリス、フランス、さらにロシアの船が日本の近海に再び出現していたので、会津藩には「忍藩」と共に「房総沿岸」の警備を一万両を支給し命じてきた。しかし、この金額では賄えるものではなかった。嘉永四年(1851年)受諾、幕府は房総の村々(一万五千石)を増加して与えた。

会津藩海防 房総警備の視察

房総警備の視察 富津陣屋絵図面

近海見分之図

 房総警備 富津陣屋跡の碑 黒船を警護する会津藩船

米艦隊渡来旧藩士固之図

 会津藩は「富津」と「竹岡」の警備のために陣屋を設けた。出立する前に江戸において「大砲十門」を鋳造した。後には砲を数倍に増やしている。

-◇- 嘉永元年(1848年)二月、松平容保は十六歳で「元服」し、翌四年六月、初めて会津の地を踏んだ。さらに翌五年の正月早々容敬が病臥となり、急ぎ江戸へ戻ったが、二月十日、容敬は「不帰の客」となった。二月二十五日、松平容保は「九代藩主」に就任した。安政三年(1856年)九月に容敬の娘「敏姫」と結婚「正室」となるっが、五年後の文久元年(1861年)十月、江戸・会津上屋敷(和田倉門内)に於いて病死する。十九歳であった。

-◇- 松平容保は九代の藩主に就任すると、房総の新しく領地の見分も含めて、海防警備の巡視に出立した。

-◇- 嘉永六年(1853年)七月八日(6月3日)アメリカの「ペリー艦隊」が浦賀に来航し、大統領の「親書」を持ってきたのである。翌年に再び来航することを伝え帰国する。幕府は「品川沖」に台場を築造を開始、完成すると「第二台場」の警備を会津藩に命じてきたのである。(台場は十二の築造の予定であったが、財政難のため、「六基」で中止となった。)

-◇- 房総沿岸警備を免じられ、「第二台場」の警備となり、「備砲」二十~三十門を備える内、第二台場は三門から四門であったという。

〈会津藩陣屋跡=富津陣屋跡〉 松平容保は一千人強の藩士の士長を鼓舞し、藩士の操練、大小放銃の実射、舟・船の運用などを巡視した。藩士・家族らは新藩主に拝掲し、感激したという。

-◇- 〈富津陣屋跡〉 -◇- レンガ造りの家の隣辺りが「陣屋」の入り口であったという。当時は小高い丘陵地であったと、地元の古老が語った。

「陣屋跡碑」を挟んで建つ墓は「戊辰戦争」に於いて「東軍」請西藩主林忠崇に協力した責任をとって「自刃」した前橋藩士の「供養碑」 (右)白井宣左衛門 (左)小河原多宮 -◇- 「富津砲台」の警備は、会津藩が品川沖の第二台場となると、白河藩・忍藩・二本松藩、前橋藩と交代していった。

-◇- 「戊辰戦争」が勃発すると、幕府陸軍「撤兵隊」は、江戸城明け渡しとなると江戸を脱け、木更津「真里谷」の「真如寺」に本営を設け、西軍を牽制しようとした。慶応四年(1868年)閏四月三日(5月24日)「市川・船橋の戦い」が展開されたが、軍事的圧力をかけ、富津陣屋警備の前橋藩を脅し「陣屋」の明け渡し、大砲六門、小銃十挺、米、金を提供させた。 2006年3月25日撮影

富津陣屋跡 〈会津藩士の墓〉〈正珊寺〉〈富津〉 弘化四年(1847年)から嘉永五年(1852年)の間、会津藩は藩主二代に亘って房総沿岸の警備に当たった。その間、藩士・家族らが亡くなった。

 

-◇- 「お彼岸」のためか、住職は留守で取材がかなわなかった。墓地を散策すると、一番奥の墓地に並んで建っていた。

正珊寺 〈会津藩士の墓〉〈正珊寺〉 正珊寺

〈会津藩、品川沖「第二台場」を警備する〉 〈第三台場跡〉 〈台場跡〉 会津藩が警備した「第二台場」は最大級の規模を誇っていたが、航路の障害となることから、昭和三十四年(1957年)から撤去工事が行われ、解体された。

-◇- 会津藩は「第二台場」の警備にあたったが、安政二年(1855年)十月二日、「安政の大地震」により(江戸川下流を震源地とする直下型、マグニチュード6.9)、「台場」も大きな被害を受け、陣屋の天井の崩落などによって二十六人の犠牲者を出した。

 この時、江戸市中の町方の倒壊家屋一万五千戸、度蔵一千四百戸、圧死・焼死者七千人余といわれた。水戸藩家老藤田東湖も圧死している。また、会津藩も江戸城内和田倉門内上屋敷をはじめ、中・下屋敷も被害を出している。諸藩邸も倒壊し、総勢百三十九人の死者を出している。

品川沖台場跡 右の土塁に囲まれた凹地は弾薬庫後 中央の意思が在る所は陣屋(住居)跡 弾薬庫跡 台場跡 〈砲台場跡〉 当時のものではないと言われている。 砲台場跡 東京湾要塞砲台跡 東京湾要塞砲台跡

〈かまど跡〉 安政二年(1855年)十月二日の大地震(午後十時頃)は「第二台場」に大きな被害を与えた。この時、会津藩士勤番は五十人余が詰めていた。瞬時に建物の半数が倒壊し、家屋の下敷きになった。救助は困難を極めたという。脱出できるように孔を掘り広げれば、土に支えられている巨大な梁が崩れ落ちて、人を押し潰してしまう。

 梁の真下にいる藩士たちは、もはやこれまでと観念し、火災が起きる前に腹を切り、その血の付いた刃を国元へ届けてくれと手渡したという。外にいる藩士らは、皆涙ながらそれを受け取ると、「高輪海岸」へ泳ぎ渡った。その直後に火災が発生し、四日間燃え続け、二十六人の藩士らの焼け焦げる臭いが、風にのって高輪台、品川の方へ流れてきたという。 〈会津藩「東蝦夷地」の防備と開拓を担う〉 かまど跡 かまど跡

 

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