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ザ・戊辰研マガジン

2022年04月号 vol.54

ヤマトの歴史 十津川郷士⑩(御親兵多難-天誅組退去)その1

2022年03月28日 17:01 by tama1
2022年03月28日 17:01 by tama1

大和の歴史 十津川郷士⑩(御親兵多難-天誅組退去)

  藤本鉄石の話を聞いた前田雅樂は、天誅組の置かれた苦しい立場を理解しながらも、 ただ、これは自分の一存で返答できるものではないので、郷の首脳と直接会って交渉さ れては如何か、自分があっせんの労をとろうと申し出ています。 そして、会談は翌日九月十六日の早朝に開かれました。

 風屋ダム 場所は、前田雅樂の在所、風屋村の福寿院(残念ながら、今はダムの底にて現存せず) 代表は郷側が上平主税と丸田藤左衛門、天誅組側は記録方・参謀の伴林光平と軍医の 乾十郎、それに案内役として郷士の野崎主計が同行していました。 藤本鉄石が出席せず、伴林光平に変わったのは何故か、よくわからないそうです。

 会談の結果は、伴林光平が「南山踏雲録」に簡潔に書き残しています。 伴林光平は、誠の尊王攘夷とは何か、を論じ、その実践者である正義の士を追い出そう としている十津川郷の不実を責めています。

 これに対して、主税たちは専ら低頭して光平の舌鋒をやり過ごし、追討軍に包囲されて いる郷の苦境を訴え、すでに米塩は尽き、郷民の不安は頂点に達して暴動すら起きか ねない。暴発すれば、あなた方天誅組も無事には済まない。それにあなた方が居れば、 やがて追討軍が襲来する。その時は郷民も朝敵として皆殺しにされるだろう。

 そんなことになれば、何の罪もない女、子供まで道連れになる。どうか弱いものを助け ると思って、郷から退去願いたい。半ば脅し、半ば哀訴する策にでています。 この作戦は益荒男を自認する伴林光平の侠気を刺激したらしく、彼は結局、仕方がない と退去を承諾し、その旨を本陣に報告することになります。

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