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ザ・戊辰研マガジン

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鳥羽伏見の戦い 淀藩の苦悩

2022年04月06日 13:25 by norippe


 鳥羽伏見の戦いは3倍の兵力を持つ旧幕府軍が、新政府軍の戦意に押され、後退を強いられていた。
 旧幕府軍は本陣が置かれていた淀城まで戻った。川と堀に囲まれていた淀城は、敵を寄せ付けない難攻不落の城だった。淀藩は徳川家からの信任が厚い譜代大名。藩主は老中を務める稲葉正邦であった。


淀城址

 戦局の挽回を狙う旧幕府軍にとって最も頼りになるはずだった淀藩。
 戦局を立て直すため、大目付役の滝川は淀城へ戻り、門前に立ち、門を開けるよう告げた。すると、門から出て来た淀藩家老の八太監物は声を張り上げて言った。
「何人たりとも城中に入れるわけには行きませぬ」
 大目付役の滝川は「その方達、寝返ったな!」と驚愕したのである。土壇場になって寝返った淀藩。事件の裏に何があったのか。

 淀藩士の子孫が持っていた資料「京地変動淀大軍実録」による裏切り事件の真相である。
 戦いが始まる一ケ月前、幕府から城を貸して欲しいという依頼があった。この時、藩主は江戸にいて不在であった。留守を任されていた家老は藩主の不在を理由に断ったのである。その代わり城から100m程離れた藩の建物を提供すると申し出たのである。
 旧幕府側はこの対応に胸をなでおろし、緊急時には淀城に入れるものと思い込んだのである。以後、旧幕府側は淀藩との連絡を怠り始めたのである。

 戦の火の手は淀城の近くにまで迫っていた。城に立てこもる淀藩士たちは幕府軍からの連絡を待ち続けていた。
 資料「京地変動淀大軍実録」の1月4日の記述には幕府軍に対する不信感が綴られていた。”戦が始まり大変動が起きている。しかし徳川殿より何のお達しもない”
 1月4日、火の手は城のすぐそばまで迫っていた。いら立つ淀藩士たちは戦いにも出れず「我々はどうすればいいのか」と家老に攻め寄る。そして家老は「とにかく城の守りを固めるだけだ」と言い放った。淀藩士たちの不安は高まるばかりである。
 幕府からの連絡がまったくなかった事により、淀藩は幕府を信じることが出来なくなっていたのである。
 実はこのころ、淀藩は新政府から説得工作を受けていたのだ。公卿の三条実美から淀藩の重臣へ、直接伝令が下っていた。「何があっても旧幕府方についてはならない」
 勝手に城に入れるものと思い込んで連絡もしない幕府側、幕府の味方になると激しく圧力をかけてくる新政府側。淀藩の記録には揺れる藩士たちの胸中が赤裸々に綴られていた。

 淀藩はこれで新政府軍にも旧幕府軍にも銃口を向けられなくなった。そして悩み抜いた結果、淀藩は主である旧幕府軍につくことを拒んだのである。

 淀城に入れなかった旧幕府軍は、さらに後退する結果となった。そして、淀藩の寝返りを恨んだ旧幕府軍は建物に火を放ったのである。

 先日の新聞に、京都・淀城の火災遺構発掘「鳥羽・伏見の戦い」という記事があった。

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【幕末の戦乱 痕跡くっきり】



 江戸幕府が西国の抑えとして築いた淀城の跡地(京都市伏見区)から、焼けた土壁や瓦など、明治新政府軍と旧幕府軍が争った「鳥羽・伏見の戦い」(1868年)に伴う火災の痕跡が見つかった。
 淀城の被災の遺構が見つかるのは初めてで、敗走中の旧幕府軍が淀城のそばで放火したとする記録を裏付けるものだ。京都市埋蔵文化財研究所が二十六日までに発表した。
 研究所によると、淀藩の家老の屋敷跡とみられる礎石の列を発掘調査で発見。屋敷跡は東西30m、南北15mの範囲で、接客に使う建物や、居間らしい役割の建物など複数の棟があったと推察された。戦乱で全焼したとみられる。
 付近から焼け落ちた土壁や、赤っぽく変色した瓦、上薬が溶けた香炉や焦げた火鉢が出土した。淀城は、1623年に将軍徳川秀忠の命令で築城が開始された。淀藩主には代々、徳川氏を支えた譜代大名が就いたが、鳥羽・伏見の戦いでは、敗走する旧幕府軍が城にこもって態勢を立て直そうとするのを拒絶。入城を拒まれた旧幕府軍は街道で火を放ち、城の一部や城下町一帯を焼いた。
 戦いでは薩摩、長州藩を中心とする新政府軍が勝利しており、研究所の担当者は寵城拒絶を「時流を踏まえての判断だった」とみる。 今回の調査結果について「淀藩は『裏切り者』のレッテルを貼られがちだが、政局が動く中で難しい立場だったことを示す痕跡だ」と説明した。

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 旧幕府側がもっと緻密に淀藩と連絡を取り合っていたなら、淀藩が新政府側につくこともなかったかも知れない。そしてこの鳥羽伏見の戦いの戦況は大きく変わっていたのではないだろうか。
 以降、旧幕府軍は敗北を喫し、ここから1年5ケ月に及ぶ戊辰戦争へとつながるのである。

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