ザ・戊辰研マガジン

2018年08月号 Vol.10

幕末人物終焉の地(6- 4)井伊直弼

2018年08月03日 22:38 by norippe

 尊王思想、すなわち天皇こそが日本の支配者なのだという思想を掲げて行動する大名や志士たちが、この頃盛んに政治活動を行うようになっていったのである。
 尊王思想そのものは、江戸時代において一般教養とも言えるほど浸透していた思想なのであるが、現実には幕府が圧倒的な実力をもって君臨していたことから、あくまで観念論であるに過ぎなかった。しかし、西洋諸国が日本を圧迫するようになると、日本の6分の1程度しか治めていない幕府の実力では対応しきれず、朝廷が中心となって日本をひとつにまとめ、政治を行うべきではないかという、現実の政治思想としての尊王思想が力を持つようになっていくのである。このため、幕府はアメリカとの通商条約の是非を独断では決定せず、天皇の許可を得た上でこれを締結しようと考えていた。しかし一方で、アメリカ領事のハリスは、清がアロー戦争に敗北し、この戦いのためにアジアにやって来ているイギリス軍やフランス軍が、間もなく日本にも攻めてくるぞ、と危機感を煽ったのだ。


ハリス

 そしてもしも欧州諸国と争いが起きた場合にはアメリカが日本を支援する、という条項をつけた上で、条約の締結を強く迫ってきたのである。このため、幕閣の中には、勅許を得ずに条約を結んでしまうべきだ、という意見を持つ者が増えていった。

 直弼は、幕府が独断で条約を結んだ場合に発生するであろう国内の反発に配慮し、勅許を得てから条約を結ぶべきだという考えを持っていた。これは後の騒動を考えると正しい選択であったが、幕府の開国派の役人たちは、必ずしも直弼の意を汲もうとはしてはいなかった。直接ハリスとの交渉を担当した下田奉行の井上直清は、直弼に対し「やむを得ない場合には調印してもよいですか?」と尋ね、「その場合は仕方ないが、可能な限り引き伸ばすように」と直弼は返答したのである。これによって井上直清は調印の承諾を得たと勝手に解釈し、ハリスの元を訪れると、直弼の引き伸ばしの命令に反し、条約に調印してしまったのだ。


日米修好通商条約

 こうして孝明天皇の勅許を得ないままにアメリカとの通商条約を結んでしまったことで、直弼が危惧した通り、斉昭など幕府内の反対勢力や、各藩の尊王派の志士たちから、激しい非難を受けることになってしまったのである。
 また、この条約は関税率が日本にとって不利な不平等条約であったため、この点も非難を集める要因となった。
 直弼の政敵であり、熱心な攘夷派であった斉昭は、尾張藩主の徳川慶勝や松平慶永らと連合し、「勅許を得ないままの条約調印は不敬である」とし、直弼を詰問するために不意に江戸城に登城しました。直弼はこの時は平身低頭して彼らの言い分を聞く構えを取ったのだが、内心ではこの屈辱に対し、腹に据えかねていたようだ。
 この時に直弼は、開国派の役人たちの独断によって、自身の立場を脅かされる事態となってしまったのだ。彼らが直弼の意に反して勅許前に条約を結んだことで、斉昭らに攻撃されることになってしまい、これによって直弼は開国派の役人たちと、斉昭らを同時に強く憎むようになったのである。
 直弼はかねてより、かつての将軍と譜代大名が中心の政体に戻し、鎖国を維持して幕藩体制を取り戻したい、という保守反動的な政治思想を抱いていました。そしてこの時の屈辱がきっかけとなり、自分の理想通りの政治体制を取り戻すための、大弾圧の実行を直弼に決意させるに至ったのである。

(次号に続く)

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