ザ・戊辰研マガジン

2018年08月号 Vol.10

【都内、幕末維新史跡・五】小日向(こひなた)

2018年08月06日 23:10 by tange

 十五代将軍・徳川慶喜の終焉の地を訪ねた。小日向屋敷の跡である。そこは、文京区春日二丁目で、現在、国際仏教学大学院大学となっている。
 元々この周辺の地は、江戸湾に面した平坦市街地に張り出した武蔵野台地の東端部の一つで、小日向村と呼ばれていた。現在でも、東と南下がりの地に良好な住宅街が形づくられている。
 慶喜邸は、旧小石川区第六天町54・55番地に在った。
 新坂から大学の東側通用口を入った直ぐに、一本の大きな銀杏があたりを睥睨するようにそびえている。その前に「慶喜公屋敷大銀杏」と記された史跡を示す金属板が立っている。かつての慶喜邸正面玄関前に植えられていて、今に残ったのである。この銀杏は、慶喜撮影の「小日向玄関」と題した写真にも撮られている。


 慶喜公屋敷大銀杏

 著名な建築家、槇文彦氏設計の同大学舎内に慶喜邸復元模型が置かれていた。正面玄関前に在った大銀杏も表現されている。この地には、慶喜縁りのもとして、大銀杏と復元模型だけが残され他に何も無い。


 慶喜邸の復元模型(手前が新坂)

 慶応4年(1868)1月6日、戊辰戦争の最中、慶喜は大坂城から夜逃げし海路江戸に戻り、その後謹慎の生活に入る。明治2年、静岡に移封され、そこで28年余を過ごす。明治30年、61歳の時、東京へ戻り巣鴨に屋敷を構える。この頃から有栖川宮威仁親王(東征大総督・熾仁親王の弟宮)の強い説得を受け、翌31年、維新後初めて参内し天皇、皇后両陛下に拝謁する。
 明治34年、大久保長門守の下屋敷であったこの地へ転居する。その翌年に再び参内の上、華族に列せられ公爵を授けられる。 
大正2年11月22日、徳川慶喜、小日向屋敷にて逝去。享年77。

 訪れた地は今でも高台であるが、周りに高い建物が立ち眺望はほとんど無い。しかし、直ぐ近く称名寺の墓地で同じぐらいの標高に立つと、東京ドームの高層ホテルが東の方に見えていた。野球場や小石川後楽園が近いようだ。
 当時、台地の下には神田上水が流れ、その流れを受け止めるように水戸藩上屋敷(庭園が後楽園と呼ばれていた)が在った。慶喜は、天保8年(1837)9月29日、水戸九代藩主・徳川斉昭の七男としてこの屋敷で生まれる。つまり彼は、自分の誕生の地が良く見える場所に居を構え、晩年を過ごしていたのだ。ただし、慶喜は生後七カ月で水戸へ移され、そこで九年間に亘る文武の修学の後、弘化4年(1847)に一橋家を相続するため江戸へ戻り、江戸城一橋門内の屋敷で暮らし始める。水戸藩上屋敷での記憶は、ほとんど無かったと思われる。
 誕生の地近く小日向に移り住み、そこを終焉の地とした慶喜の気持ちを正しく推し量ることは難しい。


 小石川後楽園、湖(うみ)


 小石川後楽園、山

 平成25年秋、徳川慶喜没後100年を記念する展示会が、松戸市戸定歴史館と静岡市美術館で開催された。その時発行されたカタログに、慶喜自身が撮影した「小日向庭及遠望」と題する写真が掲載されている。それによると庭から東と南の方は全く障害物が無く、どこまでも眺望が開けている。そこからは、水戸藩上屋敷ばかりか皇居の森も見えていたに違いない。
 慶喜は、高台の屋敷から東南方向の皇居をはるかに望み、何を思っていたのであろうか。
 謹慎の誠心が陛下にやっと達せられたことに、畏れ多いと感じていたのかもしれない。
 はたまた、大きな変革の時をうまく乗り越えられ、ほっとしていたのかもしれない。
(鈴木 晋)


(次回は、会津九代藩主・松平容保の誕生と終焉の地、荒木町と小日向です)

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