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2018年08月号 Vol.10

歴史オンチの関東史跡めぐりー2 飯能戦争と渋沢平九郎(2)

2018年08月10日 21:56 by kohkawa3
2018年08月10日 21:56 by kohkawa3

2.幕末のイケメン渋沢平九郎の生い立ち

◆平九郎ゆかりの地、深谷市を歩く

 慶応4年5月23日、渋沢平九郎は現在の埼玉県越生町黒山で自刃(じじん)して果てた。
 話の順序としては、彰義隊離脱、振武軍結成から始まって飯能戦争の敗北、渋沢平九郎の黒山での自刃となるが、平九郎没後150年を記念して「幕末のイケメン!渋沢平九郎展」が深谷市の渋沢栄一記念館で7月29日まで開催され、また、都内北区の渋沢史料館では「収蔵品展 渋沢平九郎」が間もなく始まる。早く行かないと終わってしまう。そんな訳で、ここから始めることにした。
 7月11日(水)猛暑の中をJR深谷駅(埼玉県)に降りた。深谷市は「近代経済の父」渋沢栄一ゆかりの地である。東京駅に似たりっぱな駅舎の赤レンガも、昭和40年代駅舎の改築計画に伴い、渋沢栄一がこの地に設立した「日本煉瓦製造株式会社」にちなんだものとして採用された。
 コミュニティーバス「くるリン」の乗り場のある北口に出ると、そこにも渋沢栄一の銅像があった。
 乗車料金200円を払って「くるリン」に乗ると一日乗車券代わりのレシートがもらえる。30分ほどで渋沢栄一記念館に到着する。記念館から北にしばらく歩けば利根川の流れがある。その後方には赤城、榛名など上州の山々が大きくみえる。広々とした風景があった。
 館内に入り資料室入口で「渋沢平九郎 特製うちわ」をもらう。
 渋沢栄一の常設展示の一角で「幕末のイケメン!渋沢平九郎展」が行われていた。
 渋沢平九郎の日記や周辺の人々の日記、回顧録などから、平九郎の生前の人となりを浮かび上がらせようという地味な企画であったが、興味の尽きない展示であった。ここで小一時間とどまってメモなどをとっていると館長さんに声をかけられ、話を聞くこともできた。
 どこにでもいる好青年の平九郎が、歴史の激流に翻弄されながらも、人生を一生懸命生きた様を彷彿とさせた。シンプルな展示だけに想像力が刺激された。

◆平九郎が生まれ育った「尾高惇忠生家」

 渋沢栄一記念館の周辺は、渋沢栄一の生家である「中の家(なかんち)」や渋沢栄一の学問の師ともなった従兄の尾高惇忠(じゅんちゅう)の生家などが点在する。渋沢栄一は幼少の頃から「論語」を学び、生涯を通して論語に親しんだことから、この辺りは論語の里と名付けられている。
 渋沢栄一記念館から5分も歩くと「尾高惇忠生家」がある。江戸時代後期に建てられたもので、この地域の商家の趣を残す貴重な建物として深谷市指定史跡となっている。この武蔵国榛沢郡下手計(しもてばか)村の尾高家に、弘化4年(1847)11月7日、平九郎は生まれた。まだ日本が鎖国を続けていた時代である。
 尾高家は藍玉や藍葉の販売などを行っていた。藍の生産販売はこの地域を潤していた。
 入口を入った広い土間でボランティア氏の話を聞いた。この建物自体には平九郎をしのぶよすがはないが、平九郎にまつわる話は残っていた。
 平九郎も10代になると家業の手伝いをし、店に出ることもあった。平九郎が店に出ると、近所の娘達がそわそわしたという。幕末のイケメンの面目躍如たる逸話である。

◆尊皇攘夷思想と高崎城乗っ取り計画

 18歳も年の離れた平九郎の長兄、尾高惇忠は17歳で自宅に塾を開き、近隣の子どもたちに学問を教えた。水戸学の影響を受け尊王攘夷思想を抱き、近隣の青年にも少なからず影響を与えたようである。
 幕末の文久3年(1863)、尾高惇忠は渋沢栄一、渋沢喜作(成一郎)などと高崎城乗っ取り計画を試みる。幕藩体制への疑問からと言われる。「尾高惇忠生家」主屋の2階で密議が行われたという。その様子を描いた何やら怪しい「密議の絵」があった。しかし、計画は未遂に終わった。
 ボランティア氏によれば、この時の乗っ取り計画に参加したのは農民を中心に60数名、一方の高崎城には武士が60名いた。相手はプロの殺人集団である。計画を実行していたら間違いなく皆殺しだったろう。そうなれば日本の経済発展にも少なからず影響があったに違いないという。
 高崎城乗っ取り計画の未遂の後、渋沢栄一、喜作は京都へ向かい、世の中の情勢に触れる。ここで渋沢栄一は一橋慶喜に仕官する。
 平九郎はこうした環境の中で子供時代を送り、その影響を受けて尊王攘夷思想を持つようになる。青年期には、家業に従事しながら剣術(神道無念流)や和歌、俳諧を学び文武両道のびのび育ったものと思われる。そして『青年になった頃は長身で貴公子の風格があったといいます。』(平九郎うちわ裏面解説)という具合であった。

◆平九郎江戸へ、そして戊辰戦争

 慶応3年、渋沢栄一は徳川慶喜の家臣として渡欧することになる。
 パリ万博に慶喜の名代として参加する徳川昭武に同行するのだが、当時、幕臣が渡欧する場合、万一の事を考えて後継者を指名した。見立て養子という。
 渋沢栄一は平九郎を見立て養子に指名した。
 「東遊録」という平九郎の江戸での日記に、江戸での生活の一端が伺える記述があり、「平九郎展」では以下のように紹介されていた。
 渋沢栄一の見立て養子となった平九郎は、慶応3年10月半ば、江戸へ出て本銀町(現東京都日本橋)に住み、文武の修行に励む。
 また、通行人を殺傷した罪で投獄されていた実兄長七郎と手紙のやり取りをしたことや、刀や和歌集を購入したこと、尾高家の家業である藍玉の取引を行ったことが記載されているという。
 江戸での生活は幕臣の子弟としての不自由のない生活であったであろう。しかし、こうした生活も数カ月で終りを告げ、平九郎は否応もなく幕末維新の動乱に巻き込まれていく。
 慶応4年2月、平九郎は彰義隊に参加、5月には彰義隊を離脱して振武軍に参加する。この間、長兄の尾高惇忠、従兄の渋沢成一郎(喜作)らと行動を共にしている。
 平九郎は振武軍(幕軍)の一員として飯能において官軍と戊辰戦争を戦い敗北する。そして、奥武蔵山中に敗走する。


渋沢平九郎と遺書 「渋沢平九郎収蔵品展」渋沢史料館(この場所のみ写真撮影可)


赤レンガが美しい JR深谷駅


渋沢栄一記念館と平九郎うちわ(手前)


平九郎の生家「尾高惇忠生家」


尾高家の家業「藍玉」と「繭玉」


3.平九郎無念、奥武蔵山中・黒山に散る

◆平九郎、顔振峠に現る

 飯能戦争は慶応4年5月23日未明に勃発し、午前中にはその帰趨が決した。
 幕府軍の多くは奥武蔵山中に逃れるが、逃走径路の要所には官軍によって敗残兵掃討のための網が張られていた。
 翌5月24日、平九郎は顔振峠(標高500m)に現れる。
 幕軍本営となった能仁寺から顔振峠まで15kmほど、秩父街道を歩けば5時間ほどである。平九郎は官軍を避けて一昼夜山中をさまよったのかもしれない。
 そして、顔振峠での判断が平九郎の運命を決めた。この時、平九郎は一人であった。
 行動を共にしていた尾高惇忠、渋沢成一郎らは、飯能から秩父方面に逃れ、伊香保温泉(群馬県)でほとぼりがさめるのを待った。渋沢成一郎はその後、函館まで転戦する。戊辰戦争後、この2人は渋沢栄一とともに経済界や官界で活躍した。
 仲間とはぐれてしまった平九郎は顔振峠で、茶屋の老婆に「黒山(越生)方面はすでに官軍が来ている。秩父方面に行ったほうが良い。」という意味のことを言われた。しかし、平九郎は黒山に下り、敵と遭遇する。

◆越生から黒山へ「渋沢平九郎自刃之地」を訪ねる

 7月15日越生駅(埼玉県)に降りる。相変わらずの暑さである。飯能戦争が勃発した慶応4年5月23日は、現在の暦では7月中旬、ちょうど今頃である。例年であれば梅雨の真っ最中、蒸し暑い中、しとしとと雨が降っていたかもしれない。
 越生駅を降りると目の前に法恩寺がある。ここは越生今市(現在の越生市街地)の高札場にさらされた平九郎の首が、村人により密かに埋葬された寺である。平九郎にまつわる話はないだろうかと寺内を一回りしたが何もなかった。後で知ったのだが、法恩寺には「渋沢平九郎埋首之碑」があるそうだ。
 越生駅前から黒山行きのバスに乗る。終点の黒山バス停は、観光地の黒山三滝入口にある。バス通りの先は山に向かって細い道が続く。黒山三滝の入口を右に見ながら、勾配が急になる舗装道路を道なりに歩くと数分で右側に平九郎自刃の地がある。
 人の身長ほどもある「渋沢平九郎自刃之地」の石碑と、4年前に来た時にはなかった平九郎の写真と金属の案内板ができていた。以前来たのは大雪の後で、周囲が開けて広く見えたが、今回来てみると、顔振川のふちの崖の上で、木や草の生い茂る狭い場所であった。碑の傍らに「自刃岩(じじんいわ)」という直径1mほどの平らな岩があり、ここで平九郎が割腹したといわれている。
 「飯能軍之記事」(坂戸市子鹿野富夫家)という資料に、斥候で出張ってきた3人の芸州藩兵が旅商人風の平九郎に出会い、詰問したのは大満(だいま)村橋場だという記述があるらしい。大満は黒山村の隣で、黒山バス停の三つ手前に大満というバス停がある。自刃の地から2km余りも離れている。
 平九郎は敵に詰問され、疑われ、敵を斬りつけて2人に怪我を負わせ、黒山方面に逃げ戻った思われる。
 大満から黒山に向かっては結構な上り坂となっている。7月の蒸し暑いさなか、疲労困憊、傷だらけの体で、自刃の地まで来て、体力も気力も尽き果て、もはやこれまでと割腹して果てたと想像される。平九郎22歳の夏であった。
 このあたりは村のはずれで、現在でも民家もつきる寂しいところである。

◆顔振峠の平九郎茶屋で蕎麦を食う

 平九郎自刃の地から5分も歩けば顔振峠への登山口に到る。黒山と顔振峠の間には何本かの道が通じており、どの道を平九郎がたどったかは分からない。標高差約250m、45分ほどの道中である。
 歩き出すと木陰で涼しく、暑さがウソのようである。極力汗をかかないようにゆっくりと登る。樹林帯からふっと抜けると、そこは顔振峠である。
 顔振峠は、「こうぶりとうげ」とも「かあぶりとうげ」ともいい、あまりの景色の良さに後ろを振り返り振り返り登るということで、その名がついたといわれる。義経が頼朝に追われ奥州に逃れる時にこの峠を飯能側から越え、鎌倉の方を振り返りながら歩いたという伝説もある。
 顔振峠には平九郎茶屋がある。平九郎に秩父方面に行きなさいとアドバイスしたという老婆(加藤たきさん)の茶店が、平九郎茶屋と名を変えて残っている。現在の店主は加藤ツチ子さんで加藤たきさんから4代目という。
 加藤ツチ子さんが私財を投じて建てた立派な石碑には加藤たきさんと平九郎との経緯が以下のように記してある。 『・・・単身顔振峠に落ち来たり峠の茶屋にて草履をもとめその代価として刀を預け店主加藤たきに秩父路の安全なることを聞くも、遠く故郷大里空を見て望郷の念止みがたくすすめるお茶も飲み残し黒山に下りて官軍と遭遇し・・・』
 店内には顔振峠と平九郎に関連する地元紙の記事が何枚も貼ってあった。先日歩いた渋沢栄一記念館でもらった平九郎ウチワも何枚かかざってあった。「尾高惇忠生家」のボランティア氏が、最近顔振峠に行って平九郎茶屋を訪ねたと言っていたのを思い出した。ボランティア氏が茶店のお婆さんに平九郎の話をすると、機関銃のように話をしてくれたと言っていた。少し話を聞こうと思ったが、忙しそうだったのでやめた。
 平九郎茶屋でビールを飲んで、冷たいとろろ蕎麦(750円)を注文した。観光茶店にありがちな、気が入ってないふうの蕎麦が出てきてがっかりした。しかし、食べてびっくり、風味も良く腰もあり、うまい蕎麦であった。秩父でそば打ち上手のお婆さんが打っている蕎麦だという。
 見た目びっくり、味はがっかりという店はいくらでもある。見た目がっかり、味はびっくりという店はめずらしい。見た目と味の落差が衝撃的だった。

◆なぜ平九郎は敵のいる黒山へ下ったのか

 登りとは別のルートで下ることにして、平九郎茶屋を出た。
 しばらく、秩父方面への道を歩く。途中、越生・黒山三滝方面への下山路が別れる。平九郎は(たぶん)ここではたと思案した。
 宮崎三代治著「飯能戦争に散った青春像・郷土の志士渋沢平九郎」では、そのくだりを以下のように描写している。 『茶屋の老婆に教えられたとおりの道を暫く進んだところで、平九郎はふいに足を止めた。道が二筋に分れている。
 生まれ故郷の武州榛沢へ帰るには、秩父路を迂回するよりも北へ下って越生へ出た方がずっと近道であるということを平九郎は知っていた。それに加え、先ほど、顔振峠から故郷の山野を一望した平九郎の心は、切々たる望郷の念にかき立てられていた。』
 そして平九郎は越生・黒山へと下っていく。
 先日の「平九郎展」で、関係者数人の方に「なぜ平九郎は危険な黒山へ下ったのでしょう?」と聞いてみた。皆さん「うーん」と唸るばかりであった。平和ボケの私の頭ではとうてい気の利いた答えは出てこない。
 顔振峠から40分ほど下る。黒山三滝は観光地として賑わっていたが、そこそこの賑わいであった。4年前訪れた時には日帰り入浴を予定していた旅館が直前に閉館しており、その時利用した黒山鉱泉館もすでに閉館してしまっていた。今は旅館が一軒もない。
 ちょっとさびれた観光地黒山三滝を抜けて、朝利用した黒山バス停に戻る。このバス停から、平九郎が芸州藩兵3名に遭遇したという大満方面に向けてバス通りを下っていく。しばらく歩くと、右手に全洞院がある。
 平九郎の首は今朝訪ねた法恩寺に葬られたが、胴体は村人によって全洞院に葬られた。『村人たちは勇壮な最後を遂げた青年を「脱走様(だっそさま)」と呼び、命日には空腹を思いやって、墓前にしゃもじを供えて弔った。』(越生町教育委員会)という。
 全洞院には平九郎の墓がある。墓地をうろうろしたがなかなか見つからない。斜面に作られた墓地の一番上の方に、菊の花が活けられ、日本酒のワンカップやお茶のボトルが置かれている小さな墓石があった。よく見ると渋沢平九郎の文字が刻まれていた。案内も何もなくひっそりとしていた。
 平九郎は明治6年、谷中の渋沢家の墓地に葬られ、明治7年ここ全洞院にも墓が建てられた。

◆太田道灌ゆかりの寺・龍穏寺

 越生・黒山・顔振峠と平九郎ゆかりの地を一巡りして、これでおしまいである。
 しかし、もうひとつ平九郎話があるのだ。
 平九郎が顔振峠から秩父路へ迂回せず、黒山へ降りたのは理由があった。イケメン平九郎は黒山に女を待たせていたのだという。その場所が龍穏寺。負け戦を覚悟しての戦いで、こんな危ない所に女を待たせておくわけがない。取るに足りないヨタ話であるが、行かない訳にはいかない。
 龍穏寺は全洞院から歩いて1時間近くかかる。全洞院前からバスを使えば30分ほど短縮できるが、1時過ぎのこの時間バスがなかった。
 照りつける猛暑の中を延々歩くのは相当に疲れたが、龍穏寺はなかなか立派な寺であった。寺の縁起によれば、大同二年(807)の草創であるが、文明四年(1472)に太田道真・道灌父子によって再建され、父子の墓地もこの寺にある。生越は太田道灌生誕の地とされている。
 江戸時代には下総総寧寺、下野大中寺と並び関三刹(かんさんさつ)のひとつとして重要な役割を担っていた。
 関三刹のひとつ下野大中寺は、当マガジンコーヒーブレイク「その八 七不思議の寺」である。
 もちろん、龍穏寺のどこにも平九郎にまつわる話はなかった。
   (大川 和良)


平九郎自刃の地


顔振峠「平九郎茶屋」


食べてびっくり平九郎茶屋の「手打ちそば」


全洞院「渋沢平九郎の墓」(奥の墓石)


太田道灌ゆかりの寺、関東三刹「龍穏寺」山門

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