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ザ・戊辰研マガジン

2018年08月号 Vol.10

会津散策 新撰組をメインに

2018年08月05日 00:15 by hidamarikun
2018年08月05日 00:15 by hidamarikun

2018/7/15
戊辰150年ってことで会津散策
今回は、新撰組をメインに会津半日散策
8:00 会津若松市

①天寧寺
位置的に、会津武家屋敷裏山(熊注意)
新撰組局長 近藤勇の遺髪などを会津戦争時に土方歳三らが仮埋葬した場所
(入り口からものすごい獣道を歩き少し下がった場所にある)
更に、反対側の山の中に、地元の人でも道を間違うか行かないという戊辰戦争の責任をおわされ切腹した萱野権兵衛と次男郡長正の墓がある。
(こちらは、うっそうとした森の中にあり熊鈴持たないと怖くて行けない……簡易地図あるけど行かない方がよいっておっさんに言われた笑。)



②鶴ヶ城(説明割愛)
様々な角度から撮ってみた。
城用御朱印あり(城外売店にて販売 300円)




③阿弥陀寺
戊辰戦争の終結後、城下及び近辺で戦死した会津藩士の遺骸は、新政府軍の命令で触れることは許されず放置されていた。幾度もの嘆願により、やっとその埋葬許可が下りたのは翌、明治2(1869)年の2月。埋葬地は阿弥陀寺と長命寺に限られ、ここ阿弥陀寺には、およそ千三百柱にのぼる遺骸が埋葬された。今でも春・秋の彼岸には供養会が行われ、戊辰戦争に散った若き藩士たちの魂を手厚く弔っている。
また、明治3(1870)年、新政府軍に解体された鶴ヶ城の小天守にあたる御三階は阿弥陀寺に移築された。外見は三階建てだが、その実、内部は四階建て。また板敷きの床は歩くと音の鳴る鴬(うぐいす)張りで、最上階へは引き上げ式の梯子という特殊な構造をしており、かつて鶴ヶ城にあった時には秘密会議に使われていたという。当時の鶴ヶ城の遺構として、現存する唯一の建物である。
また、藤田五郎こと斎藤一の墓がある。
※寺用御朱印あり(道をはさんで真向かいの案内所にて販売 300円)



④如来堂
新選組殉難の地。
母成峠の戦いに敗れた新選組は、北へ向かおうとする土方歳三らと会津に留まろうとする斎藤一らに分かれました。このとき斎藤一は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」(谷川史郎兵衛日記)と同意した隊士とともに会津へ残りました。
明治元年(1868)年9月4日、城下に進出した新政府軍は、如来堂に立てこもる新選組を攻撃し激しい戦いを繰り広げました。
このとき全員討ち死にしたとされていますが、実際は、斎藤一をはじめ数名が生き残ったそう。
(道幅狭いし、入り口には犬小屋と民家あり。ひっそりとした場所にあり。)



記者:酒井

 

 

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