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『戊辰白河口戦争記』を読む(9)地形図で確かめながら=2

2024年01月08日 07:01 by chu-emon
2024年01月08日 07:01 by chu-emon

 前に、さらに古い地図(地形図)を参照して『戊辰白河口戦争記』の読み込みを深めたい、ということを書きました。

国土地理院は旧版地図の交付を行なっていますので、この制度を利用して閲覧することにしました。旧版地図の検索はこちらから行なうことができます。

https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do
そして少々手間がかかりますが、「旧版地図交付申請」で地図謄本を取り寄せることになります。

このようにして得られたのは、明治24年(1891年)測量の2万分の1迅速図(第二師団参謀部 陸地測量部作製)というものでした (以下「明治24年地図」) 。もちろん戊辰戦争当時の地理・地形を考える資料にしたいのですから、より古い地図があればそれに越したことはありません。しかし近代的測量による東北地方の地形図は、この明治24年測量のものが最古ということです。

欲を言えば、明治期の地方道路整備前、鉄道敷設前の土地の姿が知りたいわけですが、「土木県令」といわれた栃木県令三島通庸が福島県令を兼ねたのが明治15年、日本鉄道株式会社による白河駅までの鉄道開業が明治20年(1887年)7月、仙台駅(第二師団所在地)までの開業が同年12月です。もっとも、道路・鉄道がなければ測量事業も進展しなかったでしょう。明治24年に至ってようやく東北地方の地形図が成ったと言えるでしょう。得られた地図に、かつての地理・地形の痕跡がなるべく多く残っていることを願うばかりです。では明治24年地図を見てみましょう。

 

●白河町と小峰城

  

   

 
 この時期でも、二の丸・三の丸の堀が残存していることが分かります。ただし小峰城の建物は、慶応4年(1868年)閏420日の会津藩による白河奪取時に焼けてしまいましたので、小峰城は白河口戦争のほとんどの期間で“廃墟”のような状態だったことになります。

 

明治初期の小峰城(復刻戊辰白河口戦争記から)

 

白河の町屋の範囲は戊辰戦争当時とたいして変わらないようです。藩領時代には小峰城の東側には武家地があったはずですが、幕末に阿部家が棚倉に転封になり武士がいない町になりました。その後明治期になり武家地はいったん空き地になったようです。

51日の戦闘で、敗走した奥羽同盟軍が北方の向寺集落へ退却したときに渡った阿武隈川は途中に中州があり、二橋を繋いで架けてある形になっています。これが戦争当時もこの地形だったのか、それとも明治期の氾濫で流路が変化したのかは定かでありません。

また、町の南側を西から東へ流れる谷津田川(やんたがわ)の流路も、現代とはずいぶん違っているようです。
 

●白河町の南方

  

 

閏4月20日に白河町を占拠した会津藩と奥羽同盟軍が防衛陣を設けた、町南方の丘陵地です。5月1日、新政府軍は奥州街道本道正面に砲兵隊を置き陽動するとともに、左翼隊右翼隊を西東に迂回させ奇襲攻撃を行ないました。

右翼隊は奥州街道白坂宿から間道を通り十文字に出て、棚倉街道合戦坂(こうせんさか)より尾根ごしに雷神山の同盟軍陣地を急襲したうえ、白河町へ東方から突入しました。

(左翼隊は白坂から西へ下黒川、上黒川、小田倉原中、上新田、下新田と大きく迂回し、白河町西方から攻撃を仕掛けました。残念ながら、この範囲は明治24年地図の対象になっていません。)

 

●白河町の北方
  

   

 

51日の戦いで白河を奪還した新政府軍でしたが、その後は白河を包囲する会津藩・奥羽同盟軍の逆襲を迎撃する時期が続きました。新政府軍は5月1日に大勝したものの約700名ほどの寡兵だったので、さらに進撃するには増援の到着を待たなければならなかったからです。

5月から6月にかけて、白河を守備する新政府軍と、逆襲を期して「総攻撃」を仕掛ける会津藩・奥羽同盟軍との戦いが白河周辺で行なわれました。

白河の周辺は田んぼが広がる中に丘陵が点在する「多島海」のような風景です。街道は田んぼの中に堤を築いた上を通っていることが分かります。周囲の田んぼは大部隊の行軍に支障となったでしょう。

両軍はそれぞれ丘陵の陰に潜みつつ、または要所の丘陵の争奪をしつつ戦いを繰り広げましたが、部隊の機動性・統率性、銃器の性能において新政府側の優位が揺らぐことはありませんでした。同盟軍の「総攻撃」は結局散発的で、各個撃退されて終わったのです。

 

白河鹿嶋神社近くの風景

 

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「戊辰白河口戦争記 学習ノート」

http://home.h05.itscom.net/tomi/rekisi/sirakawa/bosin/bosin-sirakawa.htm

 

 『戊辰白河口戦争記』の訳や地名地図などを掲載しています。

 

【記者 冨田悦哉】  

 

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