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高須四兄弟~高須藩上屋敷跡を辿って~

2023年11月26日 09:11 by tetsuo-kanome
2023年11月26日 09:11 by tetsuo-kanome

 東京の新宿区四谷2丁目付近の新宿通りから、曙橋付近の靖国通りまでを南北に結ぶ通りに「津の守坂(つのかみさか)」という坂があります。これは代々「摂津守(せっつのかみ)」を名乗った美濃国高須藩松平家三万石の上屋敷があったことにちなんでいます。高須松平家は御三家・尾張徳川家の分家で、尾張藩の支藩として荒木町に江戸上屋敷を、西新宿に下屋敷を有していました。幕末の第十代藩主松平義建(よしたつ)の子慶勝(よしかつ)、茂栄(もちはる)、容保(かたもり)、定敬(さだあき)は、この荒木町の上屋敷に生まれ、各々他家に養子に出ました。本家尾張藩を継ぎ、明治新政府に与した徳川慶勝、維新時、徳川家を代表して明治政府と交渉する立場に立った御三卿の一橋茂栄、新政府軍に徹底抗戦した会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬。彼らはそれぞれの立場で、激動の幕末・維新を「高須四兄弟」は、波乱に満ちて生き抜いております。

 私は、丸ノ内線の「四谷三丁目駅」を降りて、現在の「荒木町」のと呼ばれるエリアの「高須藩上屋敷跡」を辿ってみました。新宿通りを四ッ谷駅方面に歩って行くと「車力門通り」があります。「車力門通り」と呼ばれるようになった由来は、高須藩松平摂津守の上屋敷があった頃、「車力門横丁」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていたため。

【車力門通り】

 荒木町は元花街だそうで道沿いには今も多くの 飲食店が並んでいます。「車力門通り」の緩やかな下りの道路を降りていくと、真正面に「とんかつ鈴新」があります。

【「とんかつ鈴新」】

 この「とんかつ鈴新」の建物の向かって左側の壁に貼られておりました。

 「とんかつ鈴新」の先代のご主人は、会津藩主松平容保公の大ファンだったことから、「会津藩に関する書籍」を店内で販売していたほどだったそうです。また、今でも松平容保公の生誕の日の29日は、とんかつ料金をを毎月100円引きになるそうです。

 お店のカウンタ―には、「松平容保公」のうちわが置かれておりました。

 私は、「とんかつ鈴新」の一番人気のメニューの「かけかつ丼」を注文しました。とっても美味しかったです。

 食後、お店の方に「会津藩に関する書籍は、今は販売されていないですか?」と伺ったところ、「もっともっと荒木町」と題する書籍を紹介して頂きました。内容をざっと見ると「高須藩上屋敷跡」を中心に荒木町の方々か会津若松市を訪問されたレポートや高須四兄弟について詳しく紹介されており、私は即決で購入しました。

 また、他にも「高須藩松平家」というパンフレットも無料で頂きました。

 「とんかつ鈴新」で「高須藩の四兄弟」の資料を提供しており、嬉しくにってしまいました。「とんかつ鈴新」をあとにして、すぐ隣には「金丸稲荷神社」があります。

 金丸稲荷神社の隣の公園にも「看板」があり、このへん一帯が、高須藩松平家の上屋敷があったことと「高須四兄弟」を紹介されておりました。

 私は、いよいよワクワクしながら「津の守弁天」と「策の池(むちのいけ)」を目指して、この辺一帯がすり鉢状になっている土地を更に下っていきました。

 江戸時代の高須藩松平家の上屋敷は、現在の「策の池」はもっと大きく、しかも「津之守の滝」が流れておりました。江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康公が鷹狩りの時、この地の近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び澄んだこの水が高さ4メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ、「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていたそうです。

 そして、高須藩松平家の上屋敷があったとされる「荒木町19番地」を目指して、このあたりを探しました。残念ながら、表示らしき看板も全くありませんでした。

【現在の荒木町19番地】

 現在の「荒木町19番地」は、マンションばっかり。ここに辿り着くまで、地元の住民と思われる奥様方に何度も聞きましたが、皆さんこの地が「高須藩松平家の上屋敷跡」だったことを全くご存じなかったです。会う人、会う人に、この地は、尾張藩、一橋家、会津藩、桑名藩のそれぞれ藩主となられた「高須四兄弟」の生誕の地で歴史と由緒ある地ですとお伝えし、皆さん大変名誉なことと喜んでおられました。

 平成26年9月13日(土)~11月24日には、荒木町にある新宿歴史博物館で「高須四兄弟」特別展が開催されたことを知りました。なんと、特別展開催当時には「松平容保と会津松平家のこと」と題して会津松平家第14代当主の松平保久氏が講演をなさっておりました。当時発売され「高須四兄弟」の図録が、まだ販売されていることを知って、即注文して手に入れました。

 

 正受院は、幕末まで会津松平家の菩提寺で、松平容保公は明治26年正受院(新宿2丁目15番20号)に埋葬され、また過去帳に「明治七年三月、愛彦霊神、敬彦霊神、松平氏、神葬祭二子事」記載が残っており、後にこの二子も会津院内に移されています。

【正受院】

 この梵鐘の後約20坪が松平家の墓地だったと云われ、會津松平家譜によれば、「明治二年(1869)五月十八日、朝廷保科正益に命じ、萱野長修を斬に処せしめ其の後を断たる。十二月九日、東京南豊島郡内藤新宿正受院域中に葬る。神式を用ふ。大正六年(1917)六月九日、会津院内山先榮の次に移葬す」とあり、会津若松市東山の会津藩主松平家墓所・院内御廟に改葬されました。

 なんとなんと、この「正受院」の斜め前に、私が3年前まで通勤した職場がありました。当時、この事実を全く知らなかったため通勤時は正受院の前を素通りしておりました。もっと前にこの事実を知っていれば「正受院」を訪れていたのにと後悔しております。

 会津藩主松平容保公の生誕の地から最後の地を辿りましたが、特に荒木町を巡っている時はワクワクが止まりませんでした。

【記者 鹿目 哲生】

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