2022年11月20日に関西支部京都集会がありました。
今回は、京都新選組展と三条界隈の散策です。前編では三条を巡ります。
まず、瑞泉寺に向かいます。こちらのお寺というと、縁起でもあります豊臣秀次公一族の菩提寺。「あわれ三十九霊」とあります。京の三条大橋西南の河原で世にも恐ろしい悲劇が演じられました。豊臣秀次が謀叛の罪状のもとに関白の職を奪われ高野山で自刃させられてしまいました。やがて京に運ばれ、刑場の土壇の上に西向きに据え置かれ、側室を含む39人の一族が、三条河原の刑場に次々と引き出され、刺され或いは首打たれて命を絶ちました。全ての遺骸は、大穴に投げ込まれ四角錐の塚が築かれました。この塚の上に、お寺の本堂があります。秀次の首は、石の首櫃は、本堂前にある石塔の中央部に奉安されています。また、山形城主最上義光溺愛の姫君(駒姫)の悲劇があります。漫画「花の慶次」にも描かれていますが、娘を助けるために最上義光らは嘆願書を出します。しかし、間に合わなかった。(一説では、嘆願書が届き止めるための命令が間に合わずともあります。)嫁入り(まだ相手の顔も知らない状態での話)の日が悲劇とは考えられませんね。
少し話がズレましたが、幕末関連に話を戻します。
お寺の入り口には、もう一つ案内板があります。それは、橋本左内訪問之地と岩瀬忠震宿所です。
青天を衝けで、岩瀬忠震を川口覚さんが演じていました。水野忠徳、小栗忠順と共に「幕末三俊」と顕彰された幕臣の外交官。条約調印の勅許を得るために、老中堀田正睦一行が上洛し、岩瀬も京にやってきてここを宿所とし、二ヶ月間滞在します。しかし、勅許はおりず失意の岩瀬のもとに橋本左内が訪れます。意見を交わし、一橋徳川慶喜擁立という見解が一致し、一橋派として行動しますが、安政の大獄で、左内は刑死。岩瀬は、左遷、蟄居、病死します。
【戊辰研/勝海舟/2019年6月号より引用】
勝海舟こと奥野さん力説中
隣で有田さんから銀板の英文は、私が作りましたと教えてもらいました。(ちょぴっと、ボヤキまじりで(笑))
さて、お次は
享保6年(1721)に創業しました材木商とある酢屋へ向かいます。坂本龍馬をはじめ多くの海援隊隊士をかくまい、海援隊京都本部を置いた場所です。
個人的に、坂本龍馬を語れないので写真でカバーしていきます。そこは突っ込まないでください。
写真見ずらいかもですが、スマホの限界で撮ってます。
サクサク行きましょうか!
お次は、坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋跡)を見て、ホテルリソル京都河原町三条エントランス脇の後藤象二郎寓居跡及び記念館に向かいます。
大政奉還を実現に導いた後藤象二郎の資料がありました。以前、単独で京都散策したときに見かけましたが中に入ったのは始めてです。入り口には、醤油商「壺屋」の店構えのような醤油樽。
中にはいると
坂本龍馬と後藤象二郎のパネルなど。
お時間がある方は、是非よってみてください。
お次は、名前がわからないお寺?(割愛)、坂本龍馬関連の案内碑がある場所に行きます。こちらも龍馬説明できないので写真だけの案内にします。
‥半ば不審者にしか見えない一団w
この小洒落たお店には
とあります。
後編に続く。
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