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ザ・戊辰研マガジン

2022年12月号 vol.62

富山の薬売り

2022年12月03日 13:43 by norippe
2022年12月03日 13:43 by norippe

 どこの家庭でも、胃薬や塗り薬、絆創膏くらいは置いてあると思う。
 家庭や会社に幾種類もの薬を置いて、使った分だけ代金を払う置き薬というシステムがある事はご存じだろう。これは今に始まったシステムではなく、私の小さい頃にもあった薬売りのシステムである。
 年に一回くらいだろうか、背中に山高く積まれた「柳ごおり」を背負い、どこからともやって来るおじさんがいた。玄関の戸を開け「しばらくでした」と言って、家の上がり口に「どっこいしょ」と座り、背中に背負っている荷物を畳の上に下ろすのである。
 母親は「ご苦労様です」と言って、部屋の奥から引き出しになっている箱を持って来て、そのおじさんに渡すのである。
 中身は薬であった。おじさんは箱を開け「どれどれ」と言って中を覗いて、何やら帳面を眺めはじめた。そして、背負ってきた「柳こおり」を開けて、薬を入れ始めた。
 母親はそのおじさんにお金を渡し、そしてお茶を用意した。そのおじさんはとても愛想がよく世間話をはじめ、そして紙風船を私にくれた。
 何も知らない私は、喜んで紙風船を膨らませ、外に出てその紙風船を手ではじき遊んだのである。このおじさんは、「富山の薬売り」のおじさんであった。



 置き薬の元祖である「富山の薬売り」は今に始まったことではない。江戸時代からこのシステムはあった。

 江戸時代、行商人といえば、近江商人と富山の薬売りがあった。薬といえば富山が有名である。富山の薬でもっとも有名といえば「反魂丹」である。
 越中富山の妙薬として、一躍その名を高めた反魂丹を振興・奨励したのは、二代藩主前田正甫とされている。ここに一つのエピソードがある。

 元禄3年(1690)、正甫が江戸城に参勤したとき、三春藩の大名がにわかに腹痛で苦しんだ。そこで持参の反魂丹を与えたところ、たちまちにして治まった。周りにいた諸侯は、その効き目に驚き、自国で販売してくれるよう正甫に頼み込んだというものである。真偽のほどは定かでない。この反魂丹、もともとは岡山藩医の万代浄閑がつくったもので、すでに 西国の大名には知られた薬であった。
 岡山藩医の浄閑に最初に接触した富山藩士は、正甫側近の日比野小兵衛だった。小兵衛は藩用で長崎に赴く道中、浄閑と懇意になり、反魂丹を譲り受ける。長崎逗留中、病となるが、反魂丹のおかげで快癒。帰路、浄閑に薬の製法を学んで富山へ戻ると、病弱であった藩主正甫に、自製の反魂丹を献上する。効き目を知った正甫は、この製法を薬種商松井屋源右衛門に伝授させ、商人八重崎源六に諸国へ売り広めるように指図した。源六は日比野小兵衛の添状を携え、浄閑へ挨拶に出向く。そして毎年立ち寄ることになるが、 浄閑に立山産の熊肝と黄連の入手を頼まれ、毎年持参している。

 熊肝は熊の胆のうを乾燥したもの、黄連は野草(キンポウゲ科)の根茎である。どちらも反魂丹に配合される重要薬種だ。
 これについては「日本の名薬売薬の文化誌一(宗田一)にくわしいが、著者が注目するのが、浄閑が望んだ「熊肝と黄連の入手」である。熊肝と黄連は加賀越中に良質のものが多く、反魂丹にはこの2品が欠かせなかった。

 そういう意味では2品を求めた相手は源六が最初でなく、すでに小兵衛にも求めていた可能性はある。備前と越中の反魂丹を結ぶものとして、熊肝と黄連は重要な鍵であった。

 熊肝と黄連については、立山の修験者たちも、全国を廻って護符や扇子・経唯子とともにこれら生薬を配布していた。代金は初穂料として一年遅れで受け取るというものである。
 この方式はやがて商いとして発展していく。反魂丹など数種の薬をまとめて客に預け、一年後に訪れ、使ってある分の代金を受け取り、減った薬を補充するというものである。

 やがて正甫は修験者の配薬を禁じ、商人だけに許可を与える。しかも「他領商売勝手」、他国への行商を認めるというもの。富山売薬は藩の保護を受け、全国へ販路を拡大していった。
 富山のかつての行商人が全国に伝えたものは、薬の他、得意先へのみやげものがある。上得意客には輪島塗や九谷焼が用意された。
 一般的なものでは役者絵や立山参拝の案内図などの「売薬版画」。ふくらますと四角くなる紙風船、氷見の縫い針など。今ではほとんど消えてしまったものばかりである。現在、縫針のほとんどは広島の生産だが、昔は氷見が全国の70%を生産していた。それにしても生半可な忍耐力では、300年などとても続かない商いである。

 私の父親は若かりし頃、行商をしたことがあると言っていた。何を売っていたのかというと「唐辛子」だった。唐辛子は薬ではないが、はたして普通の家で唐辛子を買うものか否か。真相は分からない。


参考文献:藩と県(富山の反魂丹-岡山の反魂丹)

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