十九日朝、 浪花京屋に着、ここにて三郎と袂を分かち、兵庫をさして三人急ぎ行くとて ― これはすでに新選組からの分離を決意した伊東が、討幕派を得るための旅であり、『九州行道中記』によって二十日に兵庫を出航し、二十二日に佐賀関で上陸、肥後路を陸行していたことがわかる。
さらに、二十九日に三池へ入ると、二十九日には伊東は大宰府へ向けて出立している。
二十九日 同人等に別れ、清水氏と大宰府に行く。
(『九州行道中記』) <幕末・明治> miki の 史跡巡り帳 【 福岡県大牟田市 『 清水氏こと塚本源吾邸跡 』
伊東と別れた新井と寺田某の行動は不明であり、寺田某については道案内を兼ねた人物と思われるものの、何も伝えられていない。
新井は三池にとどまっていたのか、または周辺の遊説を行っていたのか、二月六日に伊東と再会している。 六日 三池泊、二子に面会。
その後、 十七日まで行動をともにし、ふたたび別行動をとっていたが
二十日には真木外記・水野渓雲斎と 面談した記録がある。二月二十日、荒尾(新井)唯雄、護送解兵書を持ち来る約束にて、大切なるもついに来り、その日、7ツ時ごろよりまた崎陽に行くなり。
(真木外記 『日知録』)水野渓雲斎来り曰く、過日面会の宇田兵衛(伊東甲子太郎)同志の者、成尾退蔵(実名荒井忠雄)と申す者、今日罷り越し、別紙二通密かにあい渡し候上 ― (土方久元 『回転実記』) 新井は長崎に向かったようだが、途中で病気になったのだろうか、伊東と二十二日に佐賀で出会い、『九州行道中記』に「佐賀の旅館にて忠雄子に逢う」とある。
そして、二十三日には「忠雄子、病篤し」とあるものの、翌日には、大村その翌日には長崎へと向かい、二十六日に「医郡斎診察」と記されており、このときに治療を受けたものと思われる。
九州を発ったのは三月七日のことであり、十一日に大阪へ入ると十二日に帰京している 十二日 昼、淀川を船にて上京、 同志に面会雑談。『九州行道中記』) この遊説中に、 京都に残っていた同志たちが奔走し、彼らは孝明天皇の御陵衛士を 拝命することに成功していた。分離への大義名分を獲得したのである。 』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今回は、 文字の制限上ここまでにして、 こののちの 御陵衛士として分離、油小路の変、 維新後の新井さんについては次回に続きます。 私が、 新井さんについて調べるきっかけになったのは そのお墓(東京「谷中霊園」)が元新選組隊士の中でも あまりにも立派だったからです。 維新後、どんな人生を送ったのかが気になり ちょっと調べてみたら三池藩に来訪していた訳です。 お墓が立派なその後の人生も 次回でお分り頂けるかと思います。 <引用文献> ・新人物往来社 『 新選組大人名事典 上 』 ・有明新報 2009.2.14 朝刊
読者コメント