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菅野典雄前飯舘村長~判断力と柔軟性、村の未来守る~

2022年05月15日 11:38 by tetsuo-kanome

【福島県飯舘村 菅野典雄前村長】

 福島県飯舘村は、東京電力福島第1原発から約40キロ。2011年4月、1カ月以内に全村民を避難させる「計画的避難区域」に指定されました。飯舘村の大半は原発20~30キロ圏の屋内退避区域外で、全村避難は全くの想定外。村近隣の宿泊施設などは双葉地方の避難者でいっぱいだった。飯舘村の菅野典雄村長は、国に相談したら、岐阜や長野などに数百人ずつ避難するよう打診された。村民の多くは高齢者で、生活が変化するリスクは大きい。双葉病院(福島県大熊町)の患者が、避難途中で多数死亡した事態も頭をよぎった。

 「とにかく遠くへ」という国の打診はその場で断った。菅野村長は、飯舘村役場に戻り、「車で1時間程度の場所に避難先を見つけてほしい」と指示した。<村の周辺への避難が、後の復興に大きくプラスに働いた> 村民の9割は車で1時間圏内にとどまった。特別養護老人ホームや会社の事業継続も、屋内勤務を条件に、国に何とか認めてもらった。当時は子どもの転校や村民の転職を抑えたいという一心だった。除染や賠償を巡り、直接本音で話し合う環境が出来上がった。村民と対話を重ねることで、国や東電と独自の交渉ができた。年末年始などに避難区域に宿泊する「特例宿泊制度」は成果の一つ。村が国に直訴して導入された。<全村避難に際し、帰還に向けた目安の時期を『2年くらい』とし、11年12月には当面の除染目標を早期帰還が見込める年間積算線量5ミリシーベルト以下と定めた> 先が見通せないのに時期を示すべきか悩んだが、帰る見込みがあれば村民に希望を持ってもらえる。国基準の1ミリシーベルトまで待っていては、村に戻れるのは何年も先になってしまう。除染を巡る環境省とのやりとりは難航した。当初は「規制官庁で現場感覚が薄い」と感じた。実情を踏まえた除染が軌道に乗るまで2年かかった。 帰還を見据え、1年目から放射線に対する不安を軽減するリスクコミュニケーションを実施した。津波と違い、放射線の被害は見えない。リスクに対する意見は百人百様だ。「国の手先」「東電から金をもらっている」と批判されたこともあった。村長就任時、支持者が「公正無私」の大きな掛け軸を村長室に掲げた。この言葉を背負い、批判覚悟で難しい判断を下した。全村避難は6年に及び、村民に「うそになってしまい申し訳ない」と何度謝っただろうか。でも、村民は誰も責めなかった。<15年11月、村内の蕨平地区に除染廃棄物を燃やして量を減らす施設が完成。周辺5市町の廃棄物も受け入れた>原発同様、「造るのはいい。自分の所は嫌」という声が多かった。それは当然だが、5市町は避難先として村民を受け入れている。「困ったときはお互いさまでしょう」と半年、住民を説得して回った。自前で焼却処分できる環境ができたことで、着工後に大雪被害を受けた建物を含む4500棟の解体費が国負担となり、村にとってもメリットは大きかった。国や東電と提案し合い、柔軟な考えで前に進もうとするバランス感覚を大切にしてきた。村の代表としてどれだけ実利が取れるか。白か黒かを極端に決めてしまうより、グレーが良い結果につながることもある。

 2017年3月末で帰還困難区域の長泥地区を除き避難指示が解除された。当初、解除に合わせて村内の学校再開を目指した。菅野村長就任以来、「心を込めて丁寧に」という意味の方言を基に「までいライフ」の村づくりに取り組んだ。東京電力福島第1原発事故の前も後も、村づくりの原点は人。人づくりは教育が大切だ。いつ学校を村に戻すか。保護者にはそれぞれ自分の子どもの入学や卒業などの区切りがあり、多くは先送りを要望してきた。それではいつまでたっても決まらない。「村長は話を聞かない」と言われたが、「送迎が大変」という保護者の声を受け、1年移転を延ばして中学校の校舎を改修し、小中学校を集約した。他の避難自治体より村に戻った子どもの割合は多い。高校受験を翌年に控えた中学2年生の生徒数は半減すると覚悟したが、全員が戻ってくれた。後日「皆で村の卒業証書をもらおう」と話し合ったと聞き、涙にくれた。

 2020年、帰還困難区域の特定復興再生拠点区域(復興拠点)外でも完全な除染なしで避難指示が解除できるよう国に要望した。国は拠点外の再建方針を示そうとしない。帰還困難区域の長泥地区では除染土を農地造成に再利用する事業を受け入れ、解除対象面積を当初の90倍の約180ヘクタールに広げたが、これでも拠点外の約15世帯は取り残されてしまう。一括解除の道筋を早く付けなければと考えていた。国の方針では、拠点外にある家屋でも主要道路沿いにあれば解体と除染が可能とされていた。約15世帯は道路沿いにあり、解除後すぐ住む予定もない。住民説明会では「家は解体したらいい。国と話し合って」と背中を押された。国は他自治体との兼ね合いから慎重だった。拠点外に村営復興公園を造ることで、「公園に遊びに行くには道路の除染が必要」という理由付けをした。8カ月かけて交渉がまとまり、全世帯で解除の見通しが立ったので村長退任を決めた。<帰還困難区域を除く避難指示解除から、今月で5年となる>  復興には「元に戻る」という意味がある。復興というより、新しい形の村を皆で作らないといけない。村内には約1500人が暮らす。原発事故で急激に人口は減ったが、1500人で頑張っている村は全国各地にある。避難先で公共サービスを受けつつ、村とのつながりを維持できる「二重住民票」は実現しなかったが、住民登録なしに一定のサービスを受けられる「ふるさと住民票」の制度を18年から導入した。村を訪れたボランティアらを中心に「心の古里」とする人は増えている。原発事故から学んだことを次世代にバトンタッチすることが大切。原発事故を逆手にできたこと、出会えた人は多い。マイナス面に目が行きがちでも「物は考えよう」とプラス面を見いだせば道は見えてくる。小さな村の生き残り策だった「までいライフ」は30年先の日本の在り方を示している。経済成長と心の豊かさのバランス感覚を持った成熟社会への切り替えが必要だ。

【福島県の飯舘村の位置】

【福島第一原子力発電所事故の避難指示区域】

 菅野典雄村長は、村長として6期24年を務め、2020年10月26日に村長を退任されました。菅野村長は、退任式であいさつし、「名刺にずっと『住む人の心が 村の顔です』と記してきた。村民の心こそが村の宝であると考え、思いをかけて務めてきた24年間だった」と振り返り、村民と職員、関係者に深く感謝を伝えました。

 私は、原発事故の一か月後、福島勤務となりました。そして飯舘村の担当となり、初めて飯舘村に行きました。菅野村長にお会いするのもこの時が初めてでした。被害者と加害者の立場を超越する包容力を感じました。私は初めてお会いした時の菅野村長が今でも忘れられません。私は一年三ヶ月の間、飯舘村のために全力で取り組みました。この一年三ヶ月は私の一生の財産であり宝物です。その後、福島勤務を通算で五年半務め、2017年福島の地を離れることになりました。私は、最後のご挨拶で、事前に菅野村長にアポイントをとって、再会することができました。この時も、戦友と再会するかのように満面の笑みで私をお迎え頂き、膝つき合わせてたくさんのお話をさせて頂きました。この時の写真も私の大切な大切な宝物です。

 その後、菅野村長とは年賀状だけのお付き合いでしたが、村長退任後、菅野前村長から著書「モノハカンガエヨウ」をお送り頂きました。

 その後、菅野前村長の著書「こころのポケット」も頂きました。

 そして、今年、菅野前村長の三冊目の著書「ココロを耕す教育行政を」を再びお送り頂きました。温かいお手紙と共に頂戴し大変感激しました。

 菅野前村長の三冊の著書を拝読しました。飯舘村の村長を6期24年間務められた経験をそれぞれの著書に記載されており、素晴らしいの一語に尽きます。菅野前村長と私の出会いは、まさに、『まさかの出会いは人生の財産(タカラ)』そのものです。いつの日か、菅野前村長の飯舘村のご自宅に伺い、ゆっくりといろいろなお話をさせていただきたいと思っておりますし、菅野前村長は、私の人生の師として引き続きご指導ご鞭撻を頂きたいと思います。

【記者 鹿目 哲生】

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