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ザ・戊辰研マガジン

2022年06月号 vol.56

江戸の坂道(渋谷道玄坂と忠犬ハチ公)

2022年06月06日 10:36 by norippe
2022年06月06日 10:36 by norippe

 東京渋谷というと今では若者の街というイメージであるが、この街にも古い歴史がある。
 江戸時代の渋谷は、諸侯や寺領のほかは幕府の直轄地として統治されていた。渋谷の丘はほとんどが武家屋敷で、低地の水田地帯には農家が点在し、宮益坂と元広尾には商家があった。渋谷の地域は、江戸市街の繁昌にともない、江戸の郊外地として代官や村役人の支配をうけ、人々は名主の絶大な権力と五人組の連帯責任の中で生活していたのである。
 行政区画としての渋谷区は、慶応4年政体書の発布から、明治11年郡区町村編制法により、南豊島郡に包括されるまでの間、武蔵県、武蔵県および東京府、小管県および東京府、品川県および東京府、朱印外1区などと、はなはだしい時は毎月変更されるほど改正が行われた。
 明治22年市制町村制の施行により、上渋谷・中渋谷・下渋谷の3村を中心に麻布・赤坂両区の一部を加えて渋谷村に、代々木・幡ヶ谷の両村で代々幡村に、千駄ヶ谷・原宿・穏田の3村で千駄ヶ谷村となった。
 明治29年南豊島郡は東多摩郡と合併、豊多摩郡が生まれ、渋谷3村もその下に引きつがれた。
 明治40年には、住宅地として発展しつづけた千駄ヶ谷村が他にさきがけて町制を実施、同42年には戸数8,954、人口35,191を擁して渋谷村が町制を実施、大正4年には代々幡村も町制を施行したのである。
 昭和7年10月1日、渋谷町、千駄ヶ谷町、代々幡町が合併し、東京市渋谷区が成立、他の79町村とともに大東京35区の一環として誕生した。
 その後、大東京市の自治権拡大に関する要求が盛んになったが、第2次世界大戦に突入、昭和18年戦時態勢の強化に伴う都制の施行などで、区の自治は著しくせばめられたのである。


昭和27年頃の渋谷駅近辺


現在の渋谷駅前スクランブル交差点

 商業が主要産業の渋谷区は、戦後の復興も渋谷駅から道玄坂を中心に始まった。昭和30年ごろを境にして高層ビルが続々建設され、商業地区に加えて業務地区といわれるオフィス街が生まれ副都心化が進んだのである。
 昭和39年のオリンピック東京大会を契機として、道路の新設や拡張があいつぎ、渋谷区の街並みは大きく変わった。
 昭和40年には渋谷区総合庁舎や渋谷公会堂が完成。渋谷駅周辺や原宿界隈は、ファッション関係の店舗や百貨店などの新しいビルが次々につくられ、多くの人々が集まる一方、若者の街として賑わいを見せている。


 江戸から大山に至る「大山街道」の一部で、現在は「渋谷駅」西側の町名にもなっている「道玄坂」。渋谷区の地形は起伏に富んでいるため、区内には多くの坂があり、名前がついている坂道だけでも30以上あるのだが、その中で1番名高い坂が渋谷駅ハチ公口前から目黒方面へ向かう上り坂の「道玄坂」である。


道玄坂

スクランブル交差点として全国的どころか世界的に有名な渋谷駅前の交差点。
この交差点を渡って道玄坂下まで来ると、ザ・プライムの前に標柱が建っている。 この標識によると、江戸時代の道玄坂は「現在の道玄坂から世田谷街道に入って松見坂までも広く呼んだもの」とのことである。

 渋谷氏滅亡後、和田義盛の後裔大和田太郎道玄が、この坂に出没して山賊夜盗の如く振舞ったとの伝説がある。しかし本来の道玄坂の語源は、道玄庵という庵があったことに由来すると考えられている。かつて「道玄物見の松」なる巨木があり、道玄がそれに登って往来を物色したり配下の者を指揮していたという逸話もある。

 標柱のすぐそばに「道玄坂の碑」と書かれた壁があり、その前に石碑が3つある。まんなかの石碑の碑文冒頭には、渋谷氏が北条氏綱に亡ぼされたとき(1525年)に一族の大和田太郎道玄がこの坂の傍に道玄庵を造り住んだので道玄坂というようになったと書かれている。しかし、道玄がどのような人物かは触れられてはいない。『天正日記』という書物には天正18年9月に道玄庵の庵主が徳川家康に由緒書を差し出したという記録があるという。いずれにしても「道玄庵」という庵があって、それが坂の名前の由来になったのは間違いないようである。


道玄坂の標柱と石碑(奥)

 この道玄坂上にある石碑、文章は国学院大学の樋口清之教授によるもので、「澁谷道玄坂」と題されている。 冒頭は、上述したように道玄庵が名前の由来であるという趣旨で、それに続いて、江戸時代にはこの坂を含む青山街道が神奈川の人と物を江戸へ運ぶ重要な物流ルートだった、明治になって品川鉄道(山手線)が出来てから渋谷が開発され始めた、という旨の記述がある。 碑文にはさらに、近所に住んでいた芥川龍之介と柳田国男の通学路だった、林芙美子が夜店を出していたというエピソードも書かれている。
 余談ではあるが、私の父親は若かりし頃、この渋谷の道玄坂で店を開き商売をしていた。そして母と知り合い結婚をした。その当時としてはとてもめずらしい新婚旅行にも行ったという羨ましい夫婦であった。
 私の父は、渋谷駅では何度もあの有名な「忠犬ハチ公」を見ていたという。
 渋谷駅といったら「忠犬ハチ公」なくしては語れない。

 それではここから、世界的名犬「忠犬ハチ公」の話である。


忠犬ハチ公

 大正12年11月10日、ハチは秋田県の大館市で生まれた。生まれて50日が過ぎた頃、東京帝国大学農学部の博士であった上野英三郎博士のもとへと引き取られていった。
 大正13年1月、上野博士と共に生活することとなったハチは、博士が大学へ出勤する際、毎日のように博士宅(現在の渋谷 東急百貨店付近)から一緒に渋谷駅の改札まで見送りに行っていたのである。そして、博士が帰ってくる時間には同じ場所へ行き降りてくる多くの乗客の中に博士の姿を見つけると大喜びで駆け寄り、家まで一緒に歩いて帰っていた。それが毎日の日課であった。
 しかし、この日課は1年4か月後に突然変わってしまった。大正14年5月、渋谷駅で下車する乗客たちの一人一人を見ても博士の姿はない。その日、博士は職場である東京帝国大学で脳溢血のためこの世を去ってしまっていたのだ。享年53歳であった。
 そうとは知らないハチ。何時間も待ち続けているハチを見て、駅員は家へ帰るように言うのだが、言葉を話せないハチに通じるはずもない。
 ハチは博士の通夜、葬儀の間、一切の食べ物を口にしなかった。それがしばらく続き、そしてハチは浅草の親戚に引き取られた。しかしそこからも一人渋谷へ遠くから毎日通うハチの姿を不憫に思ったのか、ハチは上野博士の自宅からほど近い富ヶ谷の小林菊次郎宅へと移された。上野博士宅の庭の手入れをしていた植木職人である。昭和2年秋のことであった。

 ハチは愛する上野博士を迎えるために、雨の日も雪の日も渋谷駅に行き博士を待ち続けた。列車を見ながら、最愛の飼い主である博士が降りてくるのを“今か今か”と待ち続けたのである。
 ある日、いつものように博士を待っていると、突然野犬がやって来て襲われてしまう。その際、耳に大怪我をし、その傷がもとで左耳が垂れ下がるようになってしまった。

 ハチと博士が一緒に暮らしたのは1年4か月という短い時間だった。しかし二人の絆は強く結ばれていたのだ。その頃にはすでに、近所の人や通勤で渋谷駅を通る人々にとって、ハチがいる光景は馴染みのものとなっていた。彼らはハチに食べ物やお水をあげた。中にはハチをいじめたり、追い払ったりした人もいたそうだが、それでも多くの人から可愛がられていた。
 しかし、ハチの視線は、いつ上野博士が降りてきてもわかるように、常に列車の方へと向いていた。また、当時の渋谷駅職員が記していた「忠犬ハチ公記録」によると、渋谷駅駅員の中に、ハチのお世話をする「世話役」という係がいたそうだ。ハチが駅構内に寝泊まりできるよう、ハチの世話をしていたのだ。

 昭和7年、東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」にてハチのことが掲載された。それからまもなく、日本中の人々がハチ公を見るために渋谷駅へと足を運ぶようになった。さらに昭和9年、当時の尋常小学校の教科書である尋常小学修身書巻2にも「恩ヲ忘レルナ」と題して掲載されるなど、ハチは一躍有名犬となった。このころから人々は、健気に飼い主を待つハチに対して敬意を表し、ハチのことを「ハチ公」と呼ぶようになった。ハチの行動が日本中の人々の心を掴んだのだ。
昭和9年、有志によって「忠犬ハチ公銅像建設趣意書」が作成され、彫刻家 安藤照氏の手によってハチ公の銅像が作られた。その銅像は、ハチ公の最愛の友であり家族である上野博士を待っていたその場所付近に設置された。除幕式は4月21日に盛大に執り行われ、その場にはハチの姿もあったという。
 残念ながらその銅像は、第二次世界大戦の際に金属資源供出のため鉄道省浜松工機部で鋳潰されてしまった。終戦前日のことであった。その後、安藤照氏のご子息であり、彫刻家である安藤士氏によって、昭和22年年8月、再び二代目のハチ公像が作られた。それが現在のハチ公像である。(※現在のハチ公像は、昭和60年に駅前広場拡張時に現在の場所へと移動した。)

 昭和10年3月8日午前6時頃、約10年にもおよぶ駅で待つ日々は終わりを告げた。ハチ公は、渋谷川にかかる稲荷橋(現在の渋谷警察署向かい側付近)の近くで冷たくなっている所を発見された。この付近にはハチは通常行かなかったという。享年11歳(数えで13歳)、11年3ヶ月26日でその生涯を閉じた。なぜ普段は足を運ばなかった場所にハチがいたのか、それは生前お世話になった人々に最後の挨拶をして回っていたからだという説がある。
 ハチ公を知る地元の人々はハチの逝去を悼み、そしてハチ公の博士を思う純粋な忠誠心に対して敬意を表し、ハチ公の亡骸に手を合わせた。告別式は渋谷駅にて、人間と同じように執り行われたという。午後1時には僧侶が訪れ、ハチ公像は花で埋め尽くされた。ハチ公は本当に人々に愛されていたのだ。

 ハチの死から13時間後、遺体は東京帝国大学にて病理解剖された。その際、心臓や肝臓には大量のフィラリアが寄生しており、腹水が溜まっていたことが判明した。さらに胃の中からは焼き鳥の串と思われるものが3~4本残っており、それが消化器官を傷つけたのではないかとも考えられていた。そのため、死因はフィラリアまたは消化器官損傷によるものと考えられてきた。
 ハチの内臓はホルマリンに漬けられ大学で保存された。平成23年、東京大学によりMRIや高度顕微鏡などで再度検査したところ、ハチの心臓と肺に大きな癌があることが発見された。フィラリアは中程度であったため、現在では、直接の死因はおそらく癌によるものではないかと考えられている。

 どうしてもハチ公を上野博士と一緒にさせてあげたい、そう思った人々は、ハチの骨肉を上野博士が眠る同じ青山霊園に埋葬した。
 さらに、上野博士の墓のとなりにハチ公の碑も建てた。これからは愛する博士とずっと一緒にいられるように願いを込めたのだ。ハチ公の亡骸は剥製として保存されることとなった。現在、ハチ公の剥製は上野の国立科学博物館に保存されている


東大農学部に建つ上野博士とハチ公像

 ハチ公の死から約90年の時を経て、ハチを想う人々の心がまた別の形となってあらわれた。どうにかハチと博士を再会させてあげたい、何年も待ち続けたハチの想いを叶えてあげたい。そんな想いから、ハチの80回目の命日に上野博士が勤務していた東京帝国大学(現・東京大学)の構内に二人が戻ってきたのだ。ハチがずっとずっと待ち望んでいたいつものその光景を。ハチにとって、つい昨日までいつもの幸せな日常だったこの光景、どんなに待ちわびたことだろう。
 犬の寿命は人間よりもずっと短い。時間に換算すると、人間の6倍のスピードで生きているということになる。ハチが博士を待った10年、犬からみると実に60年も待っていたこととなる。そこまで強い愛情で待ち続けたハチ。この新しい銅像のように、きっと今頃は上野博士と再会し、幸せに暮らしていることだろう。
 渋谷駅のハチ公像が「待ち合わせの場所」として今も昔も変わらず愛されているのは、もしかすると「ここに来ると大好きな人ときっと出会える。」そういうメッセージが込められているからなのかもしれない。ハチが上野博士を想ったように、犬は飼い主にはかりしれない純粋な愛を注いでくれる。それに応えられるよう、我が愛犬を愛し、幸せな犬生になるよう精いっぱい愛していきたい。

参考資料:渋谷とハチ公 真実の物語


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