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ザ・戊辰研マガジン

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【幕末維新折々の記・三十】田名部、旅館「金千」

2022年05月09日 18:56 by tange


 明治3年(1870)8月末、曾祖母・鈴木光子は、生まれ故郷の会津若松から、藩が戊辰戦争に敗北し移封された斗南、田名部(現むつ市)へ向かう。父が戦死していたので、母、妹、祖母、伯母とともに女性ばかり五人での移住である。光子は、その時10歳だった。
 藩の首脳部は、移封により23万石(実高28万石)から3万石(同8千石)と大幅な減収になるので、戸主を失った一家の移住を免除する方針だった。
 会津若松籠城戦の時、最新のスペンサー連発銃を手に戦った山本八重は、戦後、斗南へ行かず米沢の郊外で暮らした。それは、父・山本権八が戦死、兄・覚馬が行方不明だったからだ。その米沢で八重は覚馬の無事を知らされ、兄を頼って京都へ向かい、そこで新島襄と出会う。米沢には覚馬の鉄砲術の弟子が沢山いて、その一人が彼の消息をいち早く掴み彼女に伝えた。もし八重が斗南へ移住していたら、その人生は全く異なっていたに違いない。


むつ市・田名部

 回想記「光子」に次の記述がある。
『我が家では、其の行き先は如何なる所にもせよ、(殿様から)代々御高恩を受け、其の上父は、御馬前で討ち死にした程の関係であるから御供せねばなるまいと決しました』
 それを誰が言い出し、誰が決めたのかは回想記に記されていないが、無謀な決断をしたものだ。しかも、御供しなければならない肝心の殿様は、遠く東京に留め置かれていた。一家は、その後三年間、本州最北の地で塗炭の苦しみのなか生きることになる。

 新潟から米商船ヤンシー号に乗船し、野辺地に上陸。そこから陸奥湾沿いを二日かけて斗南藩庁の置かれた田名部に着く。その時の様子がやはり「光子」に綴られている。
 『やがて雪が降り始めまして、海から吹き付ける寒風が肌を刺して耐えられません。此の土地には、駕籠が無いので、馬に乗りましたため、一層寒さを感じ老人などは、凍え死せぬかと思われる位です。然し漸う漸うの事で、横浜と言う駅へ泊まり、翌日田名部の菱千と云う宿屋に着き、此の町へ落ちつけるものと、一安心いたしました』
 この後、藩庁からの指図で他の村へ移動中に光子の祖母が落馬し、その養生のため一家は田名部に戻り、「菱千」で二十日余り逗留することになる。宿賃がかさみ蓄えも残り少なくなったので八畳一間のあばら家を借りるが、そこへ移って九日目、11月17日に祖母が逝く。厳寒と劣悪な住環境が、祖母の命を奪ったのだ。
 この「菱千」は光子の勘違いで、かつて田名部の中心市街地にあった「金千」だったことを以前に記述した。(参照、本誌2019年3月号拙稿【先祖たちの戊辰戦争・三】田名部、野辺地)
 「菱千」、実は「金千」を家印とする秋濱旅館が、幕末からかなり永い間、田名部本町の目抜き通りに面して存在した。昭和初期に作成されたと思われる田名部市街図にも、「金千」は明示されている。


田名部本町・小嶋商店の隣、駐車場が宿屋「金千」跡地

 会津藩出身で初めて陸軍大将に親任された柴五郎は、予備役になった後、下北郡を二度訪れている。大正12年(1923)と昭和2年(1927)である。大正12年は予備役に編入された年で、下北から帰京した翌々日に関東大震災が発生した。
 昭和2年の訪問は9月26日で、9月28日付「下北新報」に次のような記事が掲載された(三浦順一郎著『続下北地域史話』)。
 『柴大将には北海道巡遊の帰途、二十六日来郡して当町金千旅館に一宿し同夜は太田大湊村長その他旧会藩の士十四、五名と卓を囲んで懐旧談を試み翌二十七日は落の沢、斗南ヶ丘等の旧蹟を探ねて当時を願望し田名部小学校に於いて一場の講演をなし更に恐山に登り探勝し同日田名部駅発上り三番列車にて帰京の途に就かれたが途中野辺地、三沢等にも旧知の諸氏を訪ねられた』
 柴五郎は、この時68歳だったが、多方面に亘る予定を精力的にこなしている。そして、彼も「金千旅館」に投宿していたことが興味深い。 
 予備役に編入されたとしても陸軍大将は当時の最高位の人で、柴五郎を迎えた地元の人たちは田名部で最上の宿を用意したに違いない。「金千」を家印とする秋濱旅館は、幕末維新の時から昭和の初めまで、この地で格式の高い宿としてあったのだろう。
 そんな宿に二度に亘りひと月ほど逗留していた光子の家族は、会津戦争で斃れた鈴木丹下が戦下と戦後を生き抜くため用意した400両という大金の残り全てを、田名部に着いた後しばらくして使い果たす。

 斗南、田名部の旅館「金千」で始まった光子ら家族の生活は、困窮のなか極寒の冬を三度越えて続くのである。
 女性ばかり四人の一家は、明治6年(1873)10月、田名部を離れて旅立つ。それは、懐かしの会津若松を目指した帰郷の旅だった。

鈴木晋(丹下)


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