下野街道は、会津藩が隣国へ通じる際の本道五筋として、幕府に報告した中の一筋で、会津若松城下から日光神領今市までの総延長約132Km、道幅約3.8mの街道である。
この街道は、会津から江戸へ最短の道として、会津藩をはじめ近隣諸国藩主が参勤交代に通った道。また会津藩の年間数万俵にも及ぶ廻米の輸送路として、政治的・経済的に重要な街道である。
明治17年、大川沿いに現在の国道が開通。山間を通る下野街道は、一部県道や林道となって利用されるが、峠を越える山道や地形上急峻な場所はそのまま残され、道型がかろうじてわかる荒廃した道となっている。
旧道の下野街道は、大内ダムの脇から大内峠、氷玉峠を経て会津美里町に出る道。現在は氷玉トンネルが出来て、簡単に峠を抜けることが出来る。この県道を1Kmほど南には大内宿がある。
現在、多くの観光客で賑わう大内宿であるが、戊辰戦争時は大内宿の周辺で激しい戦いがあったのはご存じだろうか。
大内峠古戦場案内板と峠の茶屋
県道131号沿いにある古戦場への入口
慶応4年9月1日、日光口守備隊長山川大蔵率いる旧幕府軍と、官軍の佐賀藩・宇都宮藩・大田原藩との激しい戦いである。
慶応 4年8月23日、白河口の新政府軍は母成峠の会幕軍(大鳥圭介ら)を撃破して若松城下に突入したが兵力不足であった。
慶応4年9月1日未明、日光口、大内村に宿営していた新政府軍は若松城下への突入を急いでいたが、会幕軍(日光口守備隊長山川大蔵)の銃撃を受けるが、反撃してなお大内峠に向い激戦となる。この戦いで宇都宮藩大沢富三郎以下四人が戦死。そして一旦大内村に退いた。
9月2日早朝、新政府軍、再び進撃を開始したが会津幕府軍は徹底抗戦し、氷玉峠で膠着。大総督府直属の軍監中村半次郎が直接指揮をとり、新政府軍は栃沢を攻略し関山に進出した。
9月4日、新政府軍は会津幕府軍陣地に突入し、会幕軍は堪らず関山に火を放ち撤退した。新政府軍はようやく関山から本郷へと進攻したのである。
大内から関山までの戦闘における会津幕府軍の戦死者は、青龍足軽三番隊中隊頭の野村悌之助以下将兵約四十名に及んだ。会津幕府軍日光口守備隊長山川大蔵は城下の形勢悪化により鶴ヶ城へ戻り、替って一連の戦闘を指揮したのは小山田伝四郎と言われている。
大内宿は焼打ちに遭う寸前であったが、当時の大内村の名主阿部大五郎が両軍の将に掛け合い、なんとか村を救い戦禍を免れた。現在の大内宿の景観がそのまま残されているのは、名主阿部大五郎のおかげであると言っても過言ではない。
この「戦死二十四人墓」は大内ダム建設の際に現在の地に移転された。大内ダムは幕末当時は大内沼だった場所で、現在は阿賀野川の洪水対策・水力発電として利用されている。
大内宿から大内ダム方面に県道131号沿いを進み、大内ダムに少し入った右手に入り口の案内板が建っているので、そこを登って行った行き止まりの広場の奥にこの墓碑はある。
新政府軍23名と会津兵1名(小出勝之助)の墓碑
碑には「慶応戊辰年(1868)9月1日より翌未明に亙り日光口守備隊長山川大蔵は、大内峠に據り官軍佐賀・宇都宮・大田原の各藩の兵を迎撃す。この藩斗で宇都宮藩大沢富三郎以下24名の戦死者の霊を供養せんと地元有志にて茲に墓碑を建立せり」とある。明治42年の建立で23名の新政府軍、1名の会津兵・小出勝之助の墓碑ある。
2023年秋季号 第3号
戊辰戦争では、当時の会津藩は鳥羽・伏見の戦いで「朝敵」とみなされ、その後も新政…
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