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ザ・戊辰研マガジン

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徳島県美馬市脇町で発見・戊辰戦争参加に影響か!

2022年06月05日 08:38 by minnycat

 幕末に京都御所の蛤御門口周辺で起きた禁門の変(蛤御門の変)の様子を伝える手紙の写しが、美馬市脇町の武田大輔さん方で見つかった。徳島藩家老家臣で勤王運動家の竹沢寛三郎(1829~1902年)が脇町にいる兄に、公家の屋敷騒動や火災に遇った街の光景を書き送っている。竹沢は禁門の変の後の戊辰戦争で活躍しており、専門家は「稲田家の戊辰戦争への積極的な参加の機運につながる貴重な手紙だ」と解説している。

 手紙の発見者は、竹沢の研究を40年以上している脇町稲田会副会長の逢坂俊男元県立文書館長。手紙は1864(元治元)年7月28日付けで宛先は兄の清一郞。手紙を所蔵していた武田さんは、先祖が竹沢ら稲田家家臣が学んだ私塾「神全塾」の主宰者。 逢坂さんによると、手紙の内容は禁門の変以前の「8月18日の政変」(1863年)で京都を追われた長州藩(萩藩)が、復権に向けて上京する時から始まる。翌7月18日の禁門の変で公家鷹司家に押し入って大砲を撃ったことや、京の繁華街が火災で灰になったことことが生々しく書かれている。朝廷が全国の21藩に長州討伐を命じたことも分かる。 勤王運動に詳しい金原祐樹県立文書館長は、8月28日の政変で尊皇攘夷派の多くが京都を追われる中、竹沢は京都に居続け、大きなリスクを冒して禁門の変の情報を得たと推測。

「稲田家は淡路の海防を担い、早くから朝廷よりだった。脇町では神全塾を中心に志士が世情を共有する情報網があり、この手紙によって朝廷を守る一体感が強まったはず。戊辰戦争の初戦鳥羽伏見の戦いで稲田家が徳島藩とは別に有栖川宮を守った隊の活躍に結びついた」と分析した。 手紙には、竹沢が長州藩の朝廷砲撃を批判した上で、その後の展開について「諸藩が長州藩征伐のため動員される。大規模な戦闘になるが、長州藩は練磨しているので容易に落城しないだろう。その間隙に乗じて夷賊(外国)が攻めてくるかもしれない」と予測した記述もある。

 藩政史に詳しい根津寿夫徳島城博物館長が、竹沢の豊富な経験と見識を裏付ける記述だと注目。「稲田家の同志は竹沢の情報が欲しくてならなかったはずだ。彼らが手紙を読んで居る時の熱気が想像できる」と語った。 逢坂さんは、竹沢の情報収集力や、不安な政情を冷静にみる力を備えていた背景について、18歳の時から全国の志士や公家三条実美、岩倉具視と交流し、有栖川宮と時世の議論をした経験などがあったからではないかと分析した。

 竹沢は、戊辰戦争が始まった直後の1868(慶応4)年1~3月、岩倉具視から美濃、飛騨の鎮撫隊代表として派遣され、成功を収めた。 戊辰戦争以前にはペリー来港に備える羽田大森の警備に参加。兵法と軍事に精通し、徳島藩の強兵策を13代藩主蜂須賀斉裕に提案している。

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